2章 考え方編14 資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい

 先日、図書館で借りた本『資本主義リアリズム 著/マーク・フィッシャー』に

 

「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」

 

という記述がありました。

 

 フレドリック・ジェイムソンという思想家の言葉らしいのですが、確かに小説でも、映画でも、世界の終わりを描いた作品はリアリティもあり、作品の数も山ほどあるのに、資本主義が終わった社会を描いた作品はほとんど、見当たらないし、どうしてもファンタジー的になりがちです。

 それほど、資本主義は人類の中に深く根をおろし、人類が滅亡する以外に資本主義が終わる理由は無いのではないかとすら思えます。

 

 そうなると世界は資本主義同士の争い。つまりは色々なパターンの資本主義が戦い、比較され、選択されていくことになります。

 

 競争を重視するアメリカ的資本主義、福祉に寄った北欧的資本主義、土地を国家所有のまま国家主導で突き進む中国の資本主義など。

 

 そこで選ばれる資本主義は何か、勝つのは何か、そうなると悲しいかな、やはり強い資本主義ということになります。

 

 多く稼ぎ、多く消費し、軍事費も潤沢で、海外にも大きな影響を与えるアメリカ的資本主義か、民主主義を脇においても国家主導で突き進む中国的資本主義。

 

 そこに住む人が幸福になるようにデザインされた資本主義は悲しいかな、必ずしも強い資本主義ではないので、それが主流になるのは今はまだ難しい。

 

 そう、今はまだ。アメリカ、中国は強く、勝つことはできる。しかし、勝ち続けることは?もっと言えば永遠に勝ち続けることは?

 

 それは不可能です。やがてどちらにも行き詰まりは訪れます。どんなものも永遠ではないのです。

 

 そこで私たちは次の資本主義を用意しておかなければなりません。北欧の福祉を重んじた資本主義はその一つになりうると思います。

 

 そして、この世界に先駆けて超高齢化を迎える日本も課題先進国として、北欧のやり方とも違う新しい資本主義を作り出す必要があると思うのです。

 

 そんなことを考えながら、国民年金額で慎ましくも愉快に暮らしていると、自分のような人が増えることで、資本主義の新しい形が生まれてきたりはしないだろうかと、愚にもつかない妄想をしてみたりするのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

5章 買い物編05 買うんじゃなくて借りてると考える

 国民年金額の65,000円で暮らすとなると、家電やパソコン、ゲーム機などは買えないんじゃないかと考える人も多いと思います。

 

 それも発想の転換で克服できます。例えばプレイステーション4が欲しいとします。その場合はメルカリやヤフオクで中古品を買えばいいのです。(取引相手の評価は重要です)

 

 もちろん、ソフトもメルカリやヤフオクで購入できます。

 

 何しろ、国民年金額での生活なら、週休は5日ですから、遊ぶ時間はたっぷりあります。

 

 そしてここが重要なのですが、積みゲー(ゲームを積んでおいて遊ばないこと)は絶対禁止です。

 

 ビンテージなものでない限り、モノの価値は時間とともに減少していくものです。使わないまま価値だけを失うなんて、こんな勿体ないことはありません。

 

 遊ばないんだったら、使わないんだったら、メルカリやヤフオクで手放すべきです。基準を決めておくことも一つの手でしょう。例えば週に一回も使わなかったら、飽きたと考えて手放すなど、です。

 

 例に挙げたプレイステーション4を中古で買って、一年間、遊び倒して、もう飽きたとなって中古で売ったとします。

 

 その差額が一万円、一万円のマイナスになったとしましょう。ソフトを月に一本、中古で買って中古で売り、一本につき千円のマイナスとなったと想定すると、年間二万二千円で週5の休みを利用して、遊びたかったゲームでたっぷり遊べるのです。

 

 娯楽費が月2,000円弱なら国民年金額の月額65,000円でも、十分捻出できる額でしょう。

 

 重要なのはヤフオク、メルカリ、ラクマなどのフリマサイトで中古で買って、使わなくなったら即中古で売るということです。

 

 買うというより、社会というか、マーケットから借りているという考えに近いのかも知れません。

 

 手放す時期をボーナス時期にするなど、工夫次第で手放すときにより高く、手放すこともできます。

 

 国民年金額で暮らすには、モノをため込まずに綺麗に手放すという発想が大切です。それは断捨離やミニマリストの考え方とも、近いのかも知れません。

 

5章 買い物編04 物よりも人を大切にしたいから私は中古品を選ぶ

 若者と、その少年(たぶん甥っ子かな)が自動車で天体観測にやってきます。少年が大きな天体望遠鏡を車から取り出したところで、若者が声を上げます。

 

「あっ、流れ星!!」

 

「えっ!!」甥っ子が慌ててそちらを見ようと体をひねった拍子に天体望遠鏡が車にぶつかり、ドアに傷をつけます。

 

「ごめんなさい」と少年がうつむき加減で謝ります。

 

 若者がやさしい笑顔で少年を許し、そこで保険会社の紹介コメントが入ります。つまり、これは保険会社のCMです。

 

 つまり保険に入っていれば、大切な愛車を傷つけられても、甥っ子にやさしくできますよ、というCMです。

 

 一方、私はその保険に入っていませんが、甥っ子にドアに傷つけられても、やさしく許すことができます。

 

 何しろ、私の愛車は前世紀のプリウスです。1999年製の初期型です。10年ほど前に中古で買ったもので、買った当時から、細かい傷があり、他にも自分や相方がこすった傷があります。

 

 ですから、ドアを凹ませた甥っ子にも、心の底からこう言えるのです。「気にしなくていいよ」と。

 

 カッコよく言えば、その程度のことでは私の愛車の価値は微塵も、傷つかないということです。(もともとボロいから)

 

 CMの若者はあの後、車を修理に出し、修理の請求書を保険会社に送って貰わなければなりませんが、私は特にすることはありません。

 

 車のドアの凹みを見て「甥っ子と星を見に行ったなぁ、あの夜は楽しかったなぁ」と思い出すぐらいのものです。

 

 

 ピカピカの新車や、新築の家は持ち主から寛容さを奪うことがあります。友人の新車に乗ろうとしたら、靴を脱いでくれと言われたなんて話はいくらでもあります。

 

 私はできるだけ中古品を買います。機能的に問題が無ければ多少の傷は受け入れます。ピカピカのものを買って、傷をつけてへこむくらいなら、最初からその分、値段が安い傷ありのものを選びます。

 

 わざわざ貴重な人生の一部を切り売りして余分に働いて、そのお金でピカピカの「モノ」を買って、傷つけまいと「モノ」に気を使い、それでも、いつか傷つけて自分自身でショックを受ける。なんとも馬鹿馬鹿しいと思いませんか?

 

 というわけで労働は週2日、生活費は月額65,000円で十分楽しく暮らせるのです。 

 

 

 

5章 買い物編03 買い物は新品より中古品の方がずっと面白い

 服や家電製品、高いものでは車などの買い物は、断然、中古がお勧めです。

 

 まず第一に、新品はどこで買っても、基本的に同じ型番なら同一のものですから、比較できるの価格ぐらいのものです。

 

 ところが、中古品は人の手を経て来ているので、一つして状態が同じものはありません。

 

 だから中古品の買い物は楽しいのです。

 

 私もそうですが、たいていの人は買い物が大好きです。

 

 お金を払うのが好きという人はあまりいないのでしょうから、欲しかったものを手に入れる喜びと、もう一つ、恐らく人は選ぶのが好きなのです。

 

 中古品は一つとして同じものはないのですから選ぶ喜びも、掘り出し物に出会ったという満足感も、新品よりもずっと大きいものです。

 

 さらに、見た目の状態は?中身は?自分はどこは妥協できて、どこが譲れない?中古品を買う時は、自分の嗜好や用途を改めて確認する必要があります。

 

 それが面倒くさいと思う人もいるでしょうが、それも大切なことです。そうして物と自分の関係を考えることで「本当にそれが必要か?」という根本の疑問に立ち返ることにもなります。

 

「必要ない」という結論になれば、それはそれで無駄な買い物をせずに済んだという訳で、お財布にも、地球環境にも(主にお財布)に良い結論が出たということになります。

 

 新品をやめて中古品を買うことで同じ予算で、一段も二段もグレードの高いものを手に入れることができるということもよくあることです。

 

 もしあなたが割高なお金を払って新品を手に入れても、あなたが箱から取り出した時点で新品は中古品に変わります。

 

 新品の魔法は一瞬のものです。

 

 新品と中古品の価格差を知ると、箱を開けるという行為にこんなにもお金が掛かるのかと愕然とすることもあります。(Apple社のように箱をあけるという行為に価値を与えている会社もありますが)

 

 もちろん、何もかも中古品というわけにもいかないのも、よくわかります。

 

 私の相方は古着は買いませんし、私自身も中古で靴を買おうとは思いません。

 

 それでも何かを買おうと思い立った時、何も考えず新品を選ぶより、選択肢に中古品を含めることで、同じお金でもっと豊かに生きることができるのです。

 

 

 

 

 

 

6章 健康編05 100歳まで生きるという人生の目標

  私は100歳まで生きるという人生の目標を持っています。

 

 100歳はまぁ、キリがいいので決めたとりあえずの目標です。できるならそれ以上、いけるなら非死、不死。吸血鬼のように永遠に生きていたいくらいです。

 

 週に2日働いて、週に5日休み、日々のほとんどをやりたいことをやって過ごしているのですから、死にたい理由はありません。

 

 しかも、60歳を過ぎれば「ベーシックインカムもどき」の国民年金まで支給されるので、若いころから国民年金額で生活している私は、本当に働く必要がなくなります。

 

 ですから、フルタイムで働いている友人が、仕事がつらいとか、毎日がつまらないとか、70歳ぐらいでポックリ死にたいとか言うのを見て、不思議でならないのです。

 

 なぜ、そんなに難しい道を行くのか、そんなに働かされて、そんなに「消費させられて」。

 

 

 もしあなたが「働くこと」によって「長生きしたくない」と思うほど、人生が傷つけられているなら、「働く」の質や量を考え直してみてはどうでしょう。

 

「フルタイムで働くのが普通」という思いがあっても、あなたが「普通」の人々と同じように生活しなければならない理由はないのですから。

 

 

8章 子育て編01 親も一緒に学べはきっと塾なんていらない

 中学での勉強は社会で生きていくのに必要なことだと思いますか?

 

 現役の中学生はそうは思わないかも知れませんが、大人になってみると中学時代に限らず、学生時代にもっときちんと勉強しておけばよかったと思うものですよね。

 

 中学の勉強はしっかりやっておくべきだと多くの親御さんは思っているはずです。

 

 だからこそ私個人としては塾なんていらないと思うのです。なぜなら親御さんが教えるべきだと思うからです。

 

 勉強を教えてあげられる親御さんは、塾に行かせるのではなく、時間を決めて教えてあげられれば大切な親子の時間になります。

 

 わざわざ、お金を払って大切な子育てという体験を他人に譲る必要はないと思うのです。

 

 塾に行くにはお金だけではなく、往復の時間、夜に出歩くために送り迎えなど、家庭で親と勉強すれば不要の要素がたくさんあります。

 

 小学校の勉強も怪しいし、中学の勉強なんてとても教えられないという親御さんもいらっしゃるでしょう。

 

 ならば子供と一緒に学ぶべきです。義務教育というだけあって小中の勉強は生きていく基礎になるものです。

 

 子供に必要だと言いながら親がわからないでは筋が通りません。一緒に教科書を読み、問題を解いてみて、学ぶべきです。

 

 そして親子で考えてわからないことは、子供に学校で先生に聞いてきてもらいましょう。そして子供に教えてもらうのです。これはきっと子供にとっても貴重な体験になると思います。

 

 やがて高校生ぐらいになると、親が一緒に学ぶというのは難しくなるかも知れませんが、親が学ぶ姿勢を見せることがきっと子供にいい影響を与えるでしょう。

 

 毎日、決まった時間、リビングで子供は高校の宿題をこなし、親は親で語学でも、歴史でも、勉強したいことを学ぶ。

 

 こんな子育てはしょせん理想論だと思うかも知れませんが、必要以上に仕事をしなければ時間は作れます。

 

 子供のために必死に働いて子供と一緒に過ごす時間がないでは本末転倒です。

 

 確かに教育にお金を使おうと思えばいくらでもお金を掛けることができるでしょう。よく「子供の将来の選択肢を広げるため」にと、なにがなんでも大学へと考える親御さんもいらっしゃいますが、大学へ行くことで子供の将来の選択肢が狭まることだってあります。

 

 親に大学まで出してもらったんだから、本当は漫画家になりたいんだけど、銀行に就職するとか、ダンサーになりたかったんだけど、保険会社に就職したなんて話はいくらでもあります。

 

 東大を出た漫画家やダンサーだっているし、東大を出て漫画家やダンサーになればいいじゃないかって言う人もいると思いますが、それはメディアに取り上げられるぐらい珍しいことだという現実の裏返しですし、親が必死に教育費をねん出して大学を出してくれたと思えば、漫画家やダンサーへの道は選びずらいものです。

 

 もし子供が奨学金がもらえるぐらい勉強ができるなら、きっと才能ですから、ぜひ奨学金を貰って大学でも大学院でも、行かせるのはありだと思います。

 

 そうではなく、必死に尻を叩いて、どうにか大学に行かせるようなら、子供の適正とやりたいことを考えて、別の道を考えるのも一手だと思うのです。

 

 大学へ行くということは、勉強の才能に恵まれた子供たちと争わなければならないのですから、向かない子供はつらい思いをするばかりです。

 

 これからは本当にやりたいことをやって生きていく時代が来ると思います。人工知能の発達でいわゆる労働は減っていくでしょう。

 

 いかにお金を稼げるかではなく、本当にやりたいことを見つけられるかが、人生の明暗を分ける時代がすぐそこに来ているのです。

 

 

 

 

2章 考え方編13 お金はあまりにわかりやすいゆえに人生の決断を支配する

 人生の目標をお金にしてしまうことは、とても空しいことです。

 

 たとえば、あなたが「お金に不自由しないだけの資産をつくること」を人生の目標に定めたとします。

 

 それが見事に達成されたとしても、あなたはたまたま資産家の家に生まれたというだけのお坊ちゃんやお嬢ちゃんのスタート地点にたどりついたに過ぎません。

 

 資産家の家に生まれた子供たちは生まれた瞬間から、お金に関しては一切の心配のない人生、お金でできることは何でもできる人生が与えられています。

 

 あなたは人生の大半を費やし、どうにか彼らのスタート地点にたどり着いたというわけです。貴重な人生を費やして彼らに追いつくことに何の意味があるでしょう?

 

 お金を人生の成功のモノサシとする争いはとてつもなく不平等なのです。何しろ、生まれた瞬間にゴールにたどり着いている人たちがいるのですから。

 

 しかしありがたいことに、お金では買えないものの中にこそ、人生で本当に大切なものは隠されています。

 

 愛する人との暮らし、無我夢中で熱中できるもの、そして健康。

 

 これらは資産家の子弟でも、たやすく手に入れられるものではありません。むしろ、有り余るお金を持ちながら、これらを手にすることができずに苦しむ。そんな例はいくらでもあります。

 

 私たちはすぐにお金があれば幸せになれると思いがちです。

 

 つまり

 

現在→お金持ち→幸せ

 

と考えがちです。

 

しかし、わざわざ一旦「お金持ち」を経由しなくても

 

現在→幸せ

 

に直行する道があるはずです。

 

 私たちは人生で大切なのはお金ではないと考えているつもりですが、翻ってみると、お金を優先して大切なものを犠牲にしている例は数多いのです。

 

 より多くの給料を得るために、愛する家族との生活ができなくなる単身赴任を引き受ける。より給料が高いという理由で、やりたいことをあきらめ、やりたくない仕事を選ぶ。仕事のノルマのために食事や睡眠の時間を削るなど。

 

 お金というものはあまりにわかりやすい上に、世界に共通する価値観であるために油断をするとすぐに他のあらゆる価値観を押しのけて人生に過剰な影響を与えます。

 

 私たちは人生の岐路に立つとき、この決断はお金というあまりにわかりやすい価値観にとらわれて、もっと大切なものを見逃していないかと、意識して考えてみなければならないのです。

 

 というわけで以下、悪魔のささやきです。

 

 生きていくのに実はお金はそんなに必要ありません。国民年金額(月額6万5000円)で幸福に生きていけます。

 

 週に2日働いて週休5日、本当にやりたい事をやって生きる。それが「勝手にベーシックインカム生活、国民年金額の月額6万5000円で生きる」なのです。