空を飛ぶのが苦しいのなら、しっかり地に足をつけて地を歩めばいい。
一番つらい人生とは何だろう。それは恐らく「空高く舞い上がる人生」でもなく、「地面をゆっくり歩くような人生」でもない。それは「中途半端な高さの空中を必死に飛び続ける人生」ではないだろうか。
まず、経済的に豊かで、有名で、多くの人に愛され、注目を集めるような人生を「空を飛ぶような人生」と定義する。
誰もが見上げて羨ましがるような人生だ。
テレビでも、ネットでも、成功し、空高く舞い上がるかのような人生を生きる人たちが、たくさん活躍している。
テレビに出ている芸能人は年収何千万、何億という人たちがたくさんいるし、多く見られている人気ユーチューバーたちも、人気ブロガーも華やかで、輝いて見える。
彼らの人生を「空を飛ぶような人生」とすると、月6万5千円で生きる僕の生き方は「地面をゆっくり歩くような人生」だ。
「空を飛ぶような人生」が素敵に見えるのは今さら語るまでもない。彼らの生き様はテレビでもネットでもみんなの憧れだ。
「空を飛ぶような人生」の素晴らしさは語り尽くされ、テレビにもネットにもあふれている。
だから僕は、逆に「空を飛ぶような人生」の危うさについて考えてみようと思う。
まず空を飛ぶということ自体が危険極まりない。翼を失えば地に落ちるからだ。高い空を飛ぶほどそこから落ちれば、その痛みは計り知れない、命を落とす人もいる。
実際、有名人がスキャンダルで一転、日本中の人から後ろ指を指されることになったり、莫大な収入がありながら浪費が過ぎて、破産するなどという話はいくらでもある。
そして誰もが羨む活躍をしている俳優さんやアイドルが、突然、自らの命を絶つなんて、悲しいこともある。
誰もが憧れる空には危険に満ちているのだ。
そして、空を飛ぶには羽ばたき続けなければならない。翼を休めれば落ちてゆくしかないのだ。
一方、「地面をゆっくり歩くような人生」はどうだろう。
空を飛ばなくていいのだから、両手を翼に変えて羽ばたきつづける必要は無い。空いている両手で愛する人にゆっくりと触れたり、道端に咲く花を摘むこともできる。
そして疲れたと言って足を止めても落ちることはない。地面に立っているのだから。休みたい時に休み、歩きたいときにあるけばいい。
失敗して転んでも、ただ立ち上がればいい。元のように歩き始めるのは簡単だ。「空を飛ぶ人」たちのように地面に激突して大怪我をすることもない。
生々しい例をあげれば月に6万5000円で暮らしている人間が失業しても、また、月に6万5000円稼げる仕事を見つけるのはそんなに難しくはないだろう。
これが芸能人がスキャンダルで仕事を失ったり、プロ野球選手が怪我をしたなんてことになれば、元のような収入の仕事に就くのは容易ではない。
さらに、もう一つ考えてみよう、
一番つらい人生とは何だろう。
それは恐らく「空高く舞い上がる人生」でもなく、「地面をゆっくり歩くような人生」でもない。
それは「中途半端な高さの空中を必死に飛び続ける人生」ではないだろうか。
そして、日本人のほとんどはこの「中途半端な高さを必死て飛び続ける人」たちだ。
遥か上空を飛ぶ成功者たちに憧れながらも、空高く舞い上がることもできず、 人並みの人生という幻想に縛られ、地面に降りて歩く勇気もない。
人並みという曖昧な定義の生活を守るための、そこそこの収入を守るために、やりたくない仕事に、人生を、時には良心すら切り売りし、「空高く舞い上がる人生」に憧れて、芸能人や有名人の勧める商品を買い求める。
それが本当に自分が心から欲しているものかどうかも考えずに。
それは「空高く舞い上がる人生」を生きる人たちの養分になっているに過ぎないのに。
「空高く舞い上がる人生」を誰もが生きることはできない。それは幸運だったり、才能があったり、何かを持っている人たちの人生だ。
野球をするひとの誰もがイチローにはなれないし、女の子の誰もが新垣結衣にはなれないし、起業しても誰もが孫正義のようにはなれるわけではない。
もちろん自分が「空高く舞い上がる人生」を生きる人間かどうか、試してみることをぼくは否定しない。
僕だって、偉大な何かに憧れた時はあった。でも人生は自分が「空高く舞い上がる人生」を生きる人間ではないと気づいてしまってからも続くし、そのあとの人生の方がずっと長い。
だから一つの選択肢として「地面をゆっくり歩くような人生」があることを、多くの人に知ってもらいたい。
休むことなく羽ばたき続ける人生に疲れた人に。
空には小鳥が舞うが、地面には花が咲くよ、と。
「地面をゆっくり歩くような人生」も悪くはないよ、と。
だから僕は今月も6万5000円で幸せに暮らして見せたいのだ。