「なめらかな社会とその敵」鈴木健

 

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

  • 作者:鈴木 健
  • 発売日: 2013/01/28
  • メディア: 単行本
 

 

 運動を開始するシグナルとなる準備電位は、その運動しようとする意志のタイミングよりも300ミリ秒ほど早く始まると言うことである。つまり、意志より前に運動が始まっていると言うことになる。リベットの解釈によれば、意思と言うのはいわば拒否権である。自由意志と言うのは、複数の並行して回避される運動プロセスの中から、適切でないプロセスを拒否する機能に過ぎないと言う。だから自由意志は運動の準備電位の前でなく300ミリ秒後に起きると言うことになる。
その適切さが「一貫性」を意味するときに、人は運動を後付けで合理化することになる。人間の脳の中には、こうした機能が最初から備わっている。
ここ50年ほどで明らかになりつつ神経科学の知見は「個人」の「主体」概念の同一性を否定しているように見える。
自由意志があるから責任を取るのではない。責任を追及することによって自由意志と言う幻想をお互いに強化しているのである。ページ31

 

^_^ 自由意志が幻想であるとすると我々は所詮、自己の状態と外部の環境によって反応するオセロに過ぎないことになる。黒ければさらに変わりうる。白ければ黒く変わりうる。その影響はうちと外の環境によると。

 

 

貨幣へのフェティシズムは、人間の持つプリミティブな身体性から生まれる価値観を押さえつけ、非人間的な行為へと走らせる要因であると批判されてきた。要するに、手段である所のお金が大事なものになりすぎてしまい、大切にしなければならない生き方や感じ方を犠牲にするようになってしまった。世の中の多くの問題は、お金のために強欲で非情になってしまった人々によってもたらされている。ページ52

 

^_^ 凄まじいまでのお金に対する批判。しかし同意する部分は多い。しかし、同時に名誉欲というものや仲間意識というものも同時に問題をもたらしているのも事実だが、それらもお金という価値観と深く関わっている。

 

 

全世界の全議題に対して、すべての人が政治的関心を持つことを要求するのは現実的ではない。人はすべての議題に対して政治的関心を持つ必要は無い。人は政治のために生きているわけではない。他のもっと素晴らしい体験のために生きているのであって、政治はそのための手段の1つに過ぎない。ページ154

 

^_^ 時々われわれはその現実を忘れ、政治に関心のない人を非難する。いつの間にか民主主義はすべての人に税制、国防、福利に至るまであらゆることについて考察を巡らせ、時間を使い投票することを要求している。
わからないときにどうするか?ということ、政治的無関心を否定するのではなく、それでも回る民主主義を考えだすのもアリなのかもしれない。

 

 

イタリアに囲まれた人口30,000人の小国サンマリノでは、外国人が裁判官をしていると言う。これは、裁判官をどう選んでも、どちらかの側の血縁関係があったりして、客観的な裁判ができなくなるからである。
ページ162

 

^_^ これは面白い。そして英断だろう。小さなナショナリズム固執していたらできることではない。そう考えると実はアメリカ軍に戦力を外注している日本は賢いのかも。実際、外国に本土を侵略されることも、侵略することもなかったわけだし。

 

アドホック=目的限定の

 

自由意志を持った一貫した自己と言うイメージは、他者から責任を追及されることによって強化される。マーシャル・マクルーハン(メディア論)は、印刷物を黙読することによって「個人」が形成されてきたと言う。
ジュリアン・ジェームズ(心理学)の二分心と言う考えによれば、およそ3000年前までは、人類は意識を持っておらず、右脳から響く「神々の声」に従っていた。心は基本的に2つに分かれていて、左脳は右脳の指令に従っていた。そして左脳が聞く右脳の声は、神々の言葉として受け入れられていたのが、3000年前に言語の発達によって意識として統合され、神は沈黙した。
ページ174

 

 

^_^ 一貫した自己と言うのは、それが管理しやすいがゆえに採用された一種の欺瞞で、実際の個々人のあり方とは異なるということか。その点でも、男女や年齢、偏差値なども管理しやすいというだけで、モノの本質からはずれていることが多い。
例えば僕は戸籍上は男だが、完全無欠の100%男ではないだろう。心の中に女性的な部分もゼロではないと思う。
今後はコンピューターの処理能力が上がることで、管理しやすい二元論から、モノのありようをそのまま管理できるようになるのかもしれない。
ゼロイチで考えるコンピューターが、ゼロイチで無理やり処理していた世界観を覆すかもしれないと思うと面白い。

 

ノーベル賞科学者であるジョシュア・レイダーバーグ(分子生物学)は、このことを「人は人ゲノムと人常在菌ごうゲノムから成り立つ超有機体である」と表現した。
ページ176

 

アイオワ大学はインフルエンザの流行の予測に予測市場を用い、62人の専門家による市場によって、米国質病予防管理センターのレポートよりも早く結果を予想することに成功している。ページ192

 

^_^ ただの予想やアンケートよりも、このやり方は有効だろう。専門家に限定しているのも素晴らしい。

 

著者が最も関心を持っているのは、複数のパラレルワールド同士で、人々はどのようにコミニュケーションをとっていけば良いのか、そこにおいて国家はどのような存在となり得るかと言う政治哲学上の問題にある。
ページ207

 

^_^ もうすでに我々はパラレルワールドに住んでいると言えるのかもしれない。トランプの陰謀論の世界に生きる人、もっと言えば、唯一絶対神のいる一神教に生きる人、信奉するブランドに生きる人など、生きる人の数だけ世界はあり、相互の完全な理解は不可能であり、それは古来から変わらない。その中で人々は衝突し、時には妥協して生きてきたのだ。誰もが思っている自分が見ている世界感が正しいと。

 

自由とは、与えられた選択肢の中から選択することが可能であると言うことでは決してなく、複雑なまま生きることが可能であることを言う。複雑なまま生きることができれば選択肢は自然に生成する。新たな選択肢を生み出すことができる可動領域の複雑性の広さ、それが自由なのである。ページ222

 

【感想】

正直言って数式には一切、ついていけなかった。しかし、エキサイティングな議論はとても面白く読むことができた。
自分の中の様々な要素をそのまま出すことができることの自由、便宜的な個人という単位からの自由など考えさせられることは多い。
そしてこの本を読み終えて感じることは、仏教の言う中道の凄みだ。
この本に度々登場するなめらかなというのは「中道」と一致する部分が多いと思われる。万物は白か黒かではなく、本当は白寄りの黒だったり、黒寄りの白だったりするのだ。人間も、人間のすることも。
人間がより人間らしく曖昧であるためにゼロイチのコンピューターやインターネットが役立つというのもなかなか面白い現象だ。