.「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」東畑開人

【目次】

 
プロローグ
 
それでいいのか?
 
第1章
ケアとセラピー
うさぎ穴に落っこちる
 
第二章
「いる」と「する」
とりあえず座っておいてくれ
 
第3章
心と体
「こらだ」に触る
 
第4章
専門家と素人
博士の異常な送迎
 
幕間口上
時間についての覚書
 
第5章
円と線
暇と退屈未満のデイケア
 
第6章
白熊とクジラ
恋に弱い男
 
第7章
治療者と患者
金曜日は内輪ネタで笑う
 
第8章
人と構造
2人の辞め方
 
幕間口上、再び
ケアとセラピーについての覚書
 
最終章
居るのは辛いよ
 
文献一覧
あとがき
 
 

【読書メモ】

中井久夫と言う精神科医は、心と体を分けておくのは、それが便利だからと言う理由にしか過ぎないと言っていた。
ページ81

 

^_^ これもまた管理のための便宜的なモノに過ぎないのにそれが真実だとおもいこんでしまっていることのひとつだね。
 
依存労働って、本当に損な仕事だ。すべてのお母さんたちは大変なのだ。仕事が成功している時ほど、誰からも感謝されないからだ。感謝されなければされないほど、その仕事はうまくなされている。依存労働の社会的評価が低いのには、きっとそういう事情もあるのだろう。依存は気がつかれない。
ページ115

 

^_^ うまく行っている時ほど、感謝されないというのはあるね。子供がグレたりしてお父さんが呼び出されて初めてお母さんの子育ての苦労にお父さんが気づいたりして。いや、時にはお前の教育が!とか、お母さんが叱られたりして。お父さんがアンタはそもそも参加してなかっただろうがよ。なんて事もあるらしい。
 
遊ぶためには、誰かが心の中にいないといけない。それが消え去ってしまうと不安になって、遊べなくなってしまう。少年は心の中で母親に抱かれているときに、遊ぶことができる。他者とうまく重なっているときに遊ぶことができる。
ページ154

 

^_^ 遊ぶというのは心に余裕というか、安全が必要という事なのだろう。
 
民俗学で言う「ハレとケ」と言うやつだ。終わることなく繰り返される「日常=ケ」は徐々に枯れていって、「ケガレ」になってしまう。するとケガレは暴走し、デイケアの平和を脅かす。だから、時々ハレの時間を挿入することで、枯れたものを生き返らせる。ページ166
 
ケアの基本は痛みを取り除いたり、和らげたりすることだと思うのだけれど、セラピーでは傷つきや困難に向き合うことが価値を持つ。痛みと向き合う。しっかり悩み、しっかり落ち込む。そういう一見ネガティブに見える体験が、人の心の成長や成熟につながるからだ。
ページ176

 

^_^ この本のテーマの一つでもあるケアとセラピーの違いがここに現れている。
 
我々は真剣に恋をしている時、まさに何かに取り付かれているのではあるまいか。愛とはいわば例外的状態が永遠に続くことではあるまいか。日常生活の適切な均衡が乱れ、すべての行為が心の奥にある「あのこと」に彩られる(「事件」ジジェクより)
 
^_^ こうしてデイケア施設で起きていることを見ていくと、あらゆるコミュニティが一続きの直線グラフの上に存在しているのではないかと思える。経済的には何も生んでいないように見えるデイケア施設とは、対極にある莫大な利益を生み出す例えば凄腕トレーダーの集団も、よく見ると何も生み出していないのは同じだし、メンバーは歳をとるし、人は出ていく。そして中で人は傷つき、時に癒される。とにかくそうして最後はコミュニティから離れ、やがて死にゆくのだ。
そう考えると、とにかくできることは自分を受け入れてくれたコミュニティを愛すること、それぐらいではないだろうか?
 
セラピーでは「ニーズを満たすこと」ではなく、その「ニーズを変更すること」が目指されます。
これは結構大事なことですよ。世の中のビジネスの大半は、ニーズを満たすことに全力を注いでいるんだけど、ある種のニーズを満たされることで逆に行きづらくなってしまうということがあるわけです。
ページ275

 

^_^ ビジネスをケア的とセラピー的に分けて考えてみると面白いかもしれない。
 
ケアでは変化するのは環境でしたが、セラピーでは個人が変化していくことが目指されます。ページ276
 
ケアと言う親密な「依存」を原理としている営みは、「自立」した個人の集合体である「市場」の外側にあるはずだ。
ページ322