「反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか」ジョセフ・ヒース+アンドルー・ポーター

 

 

【読書メモ】

 

人には大勢の押し付けてくるニーズと関係なく、自らの快楽の源を発見しようと努めることが(中略)必要だ。
ページ11

 

文明の歴史とは要するに、社会の抑圧装置を少しずつ内在化した歴史なのだ。社会がいよいよ複雑に、秩序だったものになるにつれて、個人は基本的な欲動いっそう断念するとともに、厳しく自制することが求められる。だから現代は弱虫とクレーマーの社会になった。だから僕らは心底から不幸なのである。生活の外的条件が計り知れないほどに改善されたことには、大して意味がない。不幸は外的ならぬ内的条件から生み出されている。
ページ56

 

^_^ 思いつきなのだが、歴史が進むにつれて、刑務所の待遇は改善しつづけているが、同時に娑婆の自由は減り続けている。つまり、刑務所は娑婆化して、娑婆は刑務所化している。その証拠にもはや娑婆でもタバコを吸う場所はない。我々はいずれ生まれた時から刑務所にいることになるのではないか。

 

俺たちは狩人として作られながら、買い物の社会に生きている。もう殺すものは何もない。そのために戦うものは何もない。克服すべきもの、探求すべきものはない。そんな社会的な虚勢の中で、こういう凡人が作られるんだ
映画「ファイト・クラブ」より

 

世界をひどく抑圧的にしているのは「アダムの呪い」−人間は額に汗して自活しなければならないと言う要求だと言うのだ。
ページ70

 

^_^ アダムの呪いか。

 

カウンターカルチャーの思想はつまるところ、誤りに基づいたものである。カウンターカルチャーの反逆は、せいぜいが偽の反逆なのだ。進歩的な政治や経済への影響など一切もたらさず、もっと公正な社会を建設すると言う喫緊の課題を損なう、芝居がかった意思表示に過ぎない。つまり、ほとんどは反逆者のお楽しみのための反逆でしかない。悪くすると、カウンターカルチャーの反逆は実のところ有効に機能している社会規範や制度を揺るがしたり、その評判を落としたりして、不幸をどんどん広めてしまう。とりわけカウンターカルチャーの思想は、民主政治に対するかなりの軽蔑を生み出したせいで、30年以上にわたって、進歩的左派の多くを政治的混乱などを陥れてしまった。
ページ77

 

人はしばしば逸脱行為を1種の意義申し立てとして正当化しようとするからだが、自己欺瞞の強さのせいでもある。逸脱行為に陥る人の多くは、自分が行っている事は良い申し立ての一形態だと、本気で信じているのだ
ページ94

 

^_^ 法に異議を申し立てるのに法を犯すものを認めてはならない。しかし、法を守りつつ法の内容に抗議するモノの話を蔑ろにしてはならないということだろう。
ボクサーの刺青問題も、違反としてしっかり処分し、違反者の意見を取り入れるべきではない。しかしルールを守っているものからの抗議はその分、重く受け止めなくてはならない。

 

私は決して方の目をくぐったら侮ったりすることを唱道する者では無いのです。そういう行為は無政府状態を招くことでしょう。不正な法を破るものは、あけすけに、愛情を込めて、進んで刑罰を受ける気持ちでそうしなければなりません。良心が不正なものだと教えてくれる法に違反し、地域社会の良心がその不正に覚醒するように進んで勾留の刑罰を受けるものは、実際に法に対して最も尊敬の念を表明しているものだと私は考えます
マーティン・ルーサー・キング
ページ95

 

^_^ キング牧師は僕の考えよりずっと先に行っていた。不正な法は破るにしてもその刑罰は進んで受けろということか。確かに。

 

社会全体がより豊かになるにつれ、消費行動はどんどん軍拡競争と構造が同じになってくる。隣から聞こえる音楽を消すためにステレオの音量を上げるようなものだ。
ページ134

 

特に隣人への対抗意識はなくても「見苦しくない」生活水準を保ちたい人なら、歳を大事に出が増えていく羽目になる。こうした人たちの消費は「防衛的消費」と言う形をとる。概ね不面目を避けようとしているだけだからだ。つまり世間に遅れをとるまいとしているのだ。
ページ134

 

消費主義は根本的には、富が個人のアイデンティティーを表現もし、規定もすると言う考えに由来している。
ページ214 

 

 

「なんで家の子にポリオの予防接種を受けさせなきゃいけない?」と人々は声を上げる。「誰かがポリオになったって最後に聞いたのいつだっけ?きっと製薬外車が儲けようとしているだけでしょ」。あるいは「どうしてお産のために病院に行かなきゃいけないの?誰かが出産で死んだと最後に聞いたのはいつだっけ?多分男の医者が女を管理し抑制しようとしているだけでしょう」。
ページ320

 

^_^ 救いようがない。

 

グローバル資本主義を最大限に利用するとは、どういうことだろうか?それは市場の失敗をくまなく探し出し、見つけたら、どのように解決できるかを創造的に考えることだ。20世紀の福祉国家の歴史は、市場の倫理との1連の戦いと言うよりも、様々な形の市場の失敗の克服として解釈されるべきだ。
ページ380

 

^_^ 概ね賛成。穏当な保守派らしい意見だ。大切なのはそこでどう生きるかだ。

 

まとめ


結論としてはルールは必要だと。それを逸脱することを良しとするカウンターカルチャーには価値はない。それは認める。しかし、問題はルールが平等に課されない問題であるのだが、それに関しては著者はあまり言及していない。不公平感が人々に逸脱をもたらしていること、法の殆どが庶民のためにではなく、豊かなモノのために作られていることなど、現状に問題も多い。まぁ、的外れな左派が多いことは認めざるを得ないが。結論としては理知的に考えろ、左派も右派もというところだろう。