『世界史の針が巻き戻るとき』マルクス・ガブリエル

 

 

『世界史の針が巻き戻るとき』マルクス・ガブリエル

【目次】

はじめに−編集部より
新しい哲学が描き出す、針が巻き戻り始めた世界とは

第1章 世界史の針が巻き戻るとき
19世紀に回帰し始めた世界
ヨーロッパは崩壊に向かっている
ヨーロッパは戦争への応答として生まれた
国家規模の「擬態」が起きている
誰も真実を求めなくなった時代
リアリティーの形が変化している

時計の針が巻き戻り始めた世界における「新しい解放宣言」
新しいメディアよ、いでよ
インターネットは民主的ではない

第二章 なぜ今、新しい実在論なのか
新しい実在論とは何か
「世界は存在しない」の意味
現実は1つではない
「新しい実在論」が注目を集める理由
リアルとバーチャルの境目があやふやになった世界で
「意味の場」とは?
「3つの立方体」を新しい実在論ではどう数えるか?
すべては同等にリアルである
新しい哲学が世界の大問題を解決に導く
「新しい実在論」がもたらす劇的な変化
気候変動問題をどう議論するか
重要なのは、正しいか否か
モダニティーが人類を滅ぼす
統計的な世界観が覆い隠すもの

第3章 価値の危機
非人間か、普遍的な価値、ニヒリズム

「他者」が生まれるメカニズムを読み解く
なぜ争いが起きるか
言語と文化はソフトウェアのようなもの
道徳を考える際に必要な3つのカテゴリー
ヒジャブ問題があらわにしたもの
議論されているのは、解決策ではなく非人間化の手段
偏見が醸成される仕組み
相手を善悪で捉えることの過ち
「意味の場」を学ぶことがなぜ必要か

価値の闘争はまだ続いている
冷戦は終わっていない

フランシス・フクヤマヘーゲル主義とは
我々はニーチェが19世紀に描いた世界を生きている
倫理を学科として確立せよ

日本が果たすべき役割とは
新しい実在論と禅の共通点
日本人は「世界は存在しない」ことを容易に理解できる

第4章 民主主義の危機
コモンセンス、文化的多元性、多様性のパラドックス

民主主義の「遅さ」を肯定する
明白な事実に基づいた政治を

民主主義的思考と非民主的思考の違いとは
独裁主義と「明白な事実」

文化的相対性から文化的多元性へ
文化は時に明白さを否定する

多元性と相対性の違い
地域の視点を超えるために

民主主義と多様性のパラドックスを哲学する
ラッセルの解決法」が示すもの

間違いか否かを決める思考実験
人間は皆間違っていると言う事は、ファクトである
尊厳とは何か

第4章
資本主義の危機
コ・イミュニズム、自己グローバル化、モラル企業

グローバル資本主義は国家へ回帰する?
資本主義が持つ「悪」の要素とは

資本主義には悪の潜在性がある

「モラル企業」が22世紀の政治構造を決める
資本主義の矛盾を解決する「コ・イミュニズム」

「コ・イミュニズム」と言う提案
短期的な企業利益に偏らない方法
グローバル化国民国家弁証法から生まれる「自己グローバル化
資本主義が生み出す「内なる他者」
モラル企業、そしてモラリティーの資本主義とは

統計的な世界観から逃れるために
「グランドセオリー」を構築せよ

新しい実在論VS、ネオリベラリズム
「グランドセオリー」の構築が必要だ

第6章
テクノロジーの危機
「人工的な」知能、GAFAへの対抗策、やさしい独裁国家日本

自然主義と言う最悪の知の病
我々は人間を軽んじすぎてきた

自然科学は価値を論じることができない
科学への進歩は原始的な宗教への回帰のようだ
メディアが喧伝する「科学的成果」に騙されてはいけない
知識とイデオロギーを分けて思考する

人工的な知能など幻想だ
ライプニッツの法則で人工知能を哲学する

自動化の負の側面
自動化でできた時間はさらなるネット消費に振り分けられるだけ
人工知能ライプニッツの法則で哲学すると
機械の機能性と信用性を分けて考える
労働力が機械に置き換わるほど経済は停滞していく

われわれはGAFAにただ働きさせられている
彼らを規制すべき理由

デジタル・プロレタリアートが生まれている
日本はテックイデオロギーを生み出す巧者
やさしい独裁国家・日本

第7章
表象の危機
ファクト、フェイクニュースアメリカの病

フェイクとファクトの間で
表象とは何か

イメージには、良いか悪いかといった属性はない
イメージに騙される世界
人々は民主主義の機能を理解していない

イメージ時代をよく星始めた人々
イメージの大国・アメリカで起きているもう一つの危機

補講
新しい実在論が我々にもたらすもの

グラスは存在しないマイナスそして世界も存在しない
視点には、良いものもあれば悪いものもある
「普遍の人間性」と言う考え方
「私が考えることは全て嘘だ」と言う思考は存在しない
「信念の網」が社会を作る
社会の最高の価値が「真実」である理由
統計的な世界観が失敗するのは何故か
「私」は実在している

訳者あとがき

感想

 

【読書メモ】

 

面白いもので、共通点がない者同士が敵対する事はありません。誰かの敵であると言う事は、その人と共通点があると言うことです。闘争が起きるためには、共通点がなければいけません。中国とアメリカのソフトウェアは基本的には物質主義で、非常に似通っています。ページ63

 

人から人間性を奪うには、2つの方法があります。1つは相手を悪だと思うことで、もう一つは相手を善だと思うことです。本来なら善悪などありません。相手も自分と同じ、ただの人間なのですから。ページ82

 

^_^ 人を悪だと決めつけることで人間性を奪うと言うことに関しては考えが及んでいたが、相手を善、つまり崇拝の対象にしてしまうことでも人間性を奪うことになるのだと言う視点は持っていなかった。

これは芸能人に対する熱狂的なファンの視点にも共通しているのかもしれない。芸能人は人間性を奪われることでどんな小さな間違いも許されない、なぜなら完全な善であるはずだから。
坂本龍馬は、どんな偉人に会っても、その人がセックスをするときの必死の表情を思い浮かべて、緊張することはなかったという話を聞いたことがある。これは相手を崇拝してしまいかねない弱さを避け、相手に人間性を認識して向き合う1つの方法だったのかもしれない。

 

「歴史の終わり」フランシス・フクヤマ

新版 歴史の終わり〔上〕: 歴史の「終点」に立つ最後の人間 (単行本)

アイデンティティー−尊厳の要求と憤りの政治」フランシス・フクヤマ

 

民主的な制度の機能は、意見の相違に直面したときに暴力沙汰が起きる確率を減らすことです。ページ103

 

^_^ この点で考えれば中華人民共和国の最大の弱点はいずれ国内に革命やクーデターという暴力沙汰が起こる可能性を内に秘めていると言うことに尽きるだろう。
何しろ独裁国家では、民主的な手続きによる権力の刷新が行われないからである。それはいずれ破壊的に行われることになる。
その一方で、現状は独裁国家であるメリットが顕在化している。コロナ対策、デジタル化など。独裁国家といえども、民主主義といえども、そこには良い点と悪い点が存在しているのだ。

 

民主的な環境で自分の敵と戦いたい場合、非常に複雑で緩慢なプロセスをたどることになります。そうなれば遅かれ早かれ、「戦う事は合理的ではない、だからもっと前向きなことに集中しよう」とあなたは言うでしょう。それが民主的な制度の役割です。ページ104

 

^_^ 民主主義が緩慢である事にこれほど価値があると言う意見は初めて見た。そしてふに落ちる部分もある。
日本の裁判制度が判決まで時間がかかると言う問題を抱えているとされているがそのおかげで裁判沙汰までいかず妥協的な結論に到達できていると言う考え方もできるというわけだ。
一方でアメリカのように裁判を肯定的に捉え弁護士が大金を稼ぐ状態はより劣った民主主義と考えることすらできるのかもしれない。

 

頭に浮かぶ事ならどんな戯言でも口にできるのが民主主義だ、と思っている。でもそれは民主主義ではなくFacebookです。地球全体に拡散した、アメリ憲法修正第1条(「言論の自由」条項)の曲解です。我々は民主主義の本質その価値を理解しなければなりません。緩慢な官僚的プロセスが前であることを理解しなければなりません。ページ104 

 

 

非民主的思考と言うのは、「これが消えて欲しい」と言う考え方です。物事がいつも完全に機能する、しかも自分の利益を実現する形で機能すれば良いと言うような思考です。それは民主主義ではなく、まさに独裁主義です。中国のような独裁主義国家では、自分の敵を潰す事ははるかに簡単です。文字通り敵を殺害する方法があります。それは基本的に民主国家では不可能です。ページ105

 

^_^ つまりは民主主義上では相手を、時には敵を認めざるを得ないと言うことで、それこそが民主主義の本質と言うことなのだろう。

 

社会のゴールは、企業のゴールも含めて「人間性の向上」になるべきです。収入の増加ではなく、モラルの進歩を目指すのです。これは完全に実現可能です。ページ135

 

^_^ 現代社会は神の見えざる手が経済以外にも存在するかのように振る舞っている。企業は金儲けをしていれば、世の中を良くすることができていると思い込んでいるし、政治家は権力闘争に勝ちたいすれば、世の中を良くすることができると思い込んでいるし、人々は金儲けさえすれば幸せになれると思い込んでいる。それはまるでナイフを振り回していればいずれ美しい彫刻が出来上がると信じ込んでいるように見える。美しい彫刻は美しい彫刻を掘ろうと思わなければ掘ることはできない。皆が棍棒で殴り合いながら世界が良くなるということはない。なぜなら神は存在しないのだから。

 

^_^ 著者は企業には解雇不可の倫理委員会を設置して倫理学者を雇えというが、それは一部のエリートが学問だけではなく、経済も支配するという危険な思想ではないだろうか?
そもそも倫理には正解はあるのか?世界の巨大プレイヤーたる企業に倫理を持たせる方法は他にはないのだろうか?
GAFAのようなもはやインフラとすら言える独占企業には一般の企業よりも強い縛りを国家が与えるという方が現実的な気がする。

 

^_^ もはや我々は欲しいものを持っていて、商品の価値に差はさほどない。人々は結局見栄での消費に走るしかないのだ。そういう点で例えばエコな自動車であったり、エコな家なんていうのはある意味のブランドでもある。
その一方で例えば洋服のブランドで1着を買うと発展途上国や難民の人々に着るものを10着届けるというブランドがあったとしたら人々は買うのではないだろうか?
それを着ているだけで善行の証を示すことができるのだから。

 

人間の定義は、「一生懸命動物にならないようにしている動物」であり、だからこそ技術があるページ165

 

ベーシックインカムは、そういう人たちへの口約束でしかありません。実施はされないでしょう。私はベーシックインカムに賛成ですが、福祉国家の制度として最善の解決策だと思うから賛成なのです。ページ183

 

^_^ 気鋭の哲学者であるマルクス・ガブリエル氏もベーシックインカムに賛成であると言う事は心強いものがある。一方で彼も実現が不可能であると思っている事は悲しい現実なのだ。

 

感想まとめ
マルクス・ガブリエルはいかにもヨーロッパ的な哲学者であると言う印象だ。楽天的なアメリカ的な哲学者とも違い、一方で日本に対する親近感も持っている。
彼は企業に倫理学者が入れば世界は変えられると考えているが、それはエリートに世界の舵を任せることができると考える官僚的な考えだと思う。
彼は人工知能は知能ではないと述べているが、そんな議論に意味があるとは思えない。自動車は馬車ではなかったが、馬車を駆逐した。そして当初自動車は自動馬車と呼ばれていた。人工知能が知能と同一であるとは世の中の多くの人が思ってはいない。人工知能を定義するのに、人間の知能を比喩として利用することが有効だと認識しているに過ぎない。
ニューヨークはとても住みにくかったが、ニューヨークに住むことが外から見ると幸福に見えることから、ニューヨークには多くの人が住んでいると言う理屈はとても愉快だった。
他人に幸福に見られることが自分自身が感じる真の幸福よりも優先してしまう現代人の悲しい習性を映し出しているようだった。
だからこそ、映える写真を撮り人々をFacebookにあげるのだ。
ガブリエルはテクノロジーの進歩を評価していないが、その点でも僕自身の考えとは異なる。
自動車の発明をガブリエルは最悪の発明と述べているが、僕はそうは思わない。
もちろん問題がなかったわけではないが。
確かにテクノロジーは様々な問題を生じてはいるが間違いなく発展し続けているものの1つだ。テクノロジーによって生じた問題は結局テクノロジーによって解決するしかないのではないかと考える僕はアメリカ的なのだろうか。
その一方でテクノロジーの進化は結局人類の破滅をもたらすと言う予感を僕は常に持っている。なぜならいずれガレージで核兵器を作れる時代がやってくるだろうからである。そうなれば人類はおそらく存続できないだろう。
人類はそれまでの間、テクノロジーを使って、幸福なダンスを踊り続けるしかないのだ。