『中年の新たなる物語』目次・評価・感想

中年の新たなる物語 (動物学、医学、進化学からのアプローチ)

中年の新たなる物語 (動物学、医学、進化学からのアプローチ)

 

中年の新たなる物語 (動物学、医学、進化学からのアプローチ)

中年の新たなる物語 (動物学、医学、進化学からのアプローチ)

 

 

農耕生活に入ると、口に入る食物の種類は必然的に減る。きちんと育つ食物は1、2種類しかないことが多いため、ビタミン、ミネラル、タンパク質の摂取できる種類がかぐられるからだ。その上そうした数少ない作物が育たないと、悲劇が待っている。ページ50

 

^_^ やはり農耕の開始は人類にとって悲劇の一つとすら言えるのか。

 

その上、狩猟採集から濃厚に移行すると、なんと同じ労働量から得られる食料が減ることが現代社会の調査でも明らかになっている。南アフリカのクン族と言う狩猟採集民族は、近隣の農耕民族に比べて労働量は少ないが、食料は多い。ハスダ族と言う狩猟採集民族も、周辺地域の農耕民族が1日中働いているのに対し、1日5時間しか狩猟採集活動を行わない。周辺の農耕民族は、アフリカ南部を定期的に襲う生が生生き延びるため、狩猟採集民族と生活を共にすることも少なくないと言う。
濃厚に予定をが低下する。この証拠は稼ぎにも見られる。濃厚に移行してから、幼児の猪はもろく短くなり大人の身長が低くなり、はも弱くなっている。しかもこうした劣化があまりにも急激であることから、原因は栄養の低下以外に考えられないのだ。他にもこの時期には歯の表面を覆うエナメル質の形成不全、鉄欠乏性貧血に伴う多孔性骨化過剰、骨量低下も見られる。ページ50

 

農耕生活は多産につながる。そして進化にとっては太さんが何より重要である。濃厚が人を苦しめ寿命縮める事は、進化にとっては重要ではない。ページ52

 

^_^ やはり遺伝子は利己的だ。乗り物の我々が苦しむことなど意に介さない。

 

開拓時代、奴隷として大西洋を渡って連れてこられた黒人のうち、公開中の気が八潮不足をも耐え忍んだ人たちだけがアメリカ大陸に到達した。現在、アメリカ黒人の心疾患発生率が高いのは、このことが背景にあるとされている。ページ94

 

^_^ なんと皮肉なことか。飢餓に耐えうるつまり太りやすい人だけがアメリカ大陸に到達でき、その結果、その子孫が太りすぎで苦しんでいる。

 

行動主義心理学」では、動物の幸せは、自分の環境をどの程度コントロールできると思っているか(どの程度、痛みや不足を回避したり、食料や住処を確保できると思っているか)で判断でき、人間の幸せも同じだと言う。人生には自分の意思で決定できることもできないこともあるが、大事なのは「自分の周りの世界をどの程度自分でコントロールできると思っているか」にあると言うのだ。

 

^_^ そう考えると世のビジネスオーナーたちが幸福なのもよくわかる。ストレスも、多いが少なくともサラリーマンよりも自己決定権がある。ぼくが貧乏ながらも幸せなのは自由な貧乏人を自分で選んでいるという認識があるからだろう。

 

お母さん仮説
人間の女性に閉経があるのは、一定の年齢に達したら新たな死の危険を犯して、新たに子供を作るより既にいる子に労力を注いだ方が、子孫を増やすのに良いから。

 

お婆ちゃん仮説
人間の女性に閉経があるのは孫の面倒を見るため。実際、お婆ちゃんがいた方が子供の生存率が高まる。ただし母方の祖母。恐らく確実に自分の孫だと言えるからだと思われる。また、男の孫より女の孫を大切にする。それは遺伝的にxxの女の子の方が自分の遺伝子をより濃く、受け継いでいるから。

 

若い世代が危機に瀕すると妊娠に逃避するのは動物として当然。生きにくいなら余計に子孫を残さなければならないのだから。

 

『西洋の自死 移民・アイデンティティー・イスラム』書評・目次・感想・評価

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

 

98点

 ぼくはどちらかというとややリベラルよりの思想をしているという自覚があるのだが、この本には説得力があった。

 右も左も関係なく、是非読むべき一冊。

 移民という異文化を引き受けることによって、自国が育ててきた啓蒙主義、男女平等や、同性愛に対する寛容さなどの基礎的な考え方が、破壊されてしまっているというのだ。

 現代のヨーロッパではキリストを侮辱するようなことを言っても火あぶりにはならない。それは中世魔女狩りの時代などに終わったはずだった。

 しかし、イスラム世界ではアラーやマホメットを侮辱すれば、過激派に襲撃され殺される場合がある。実際、宗教指導者が漫画家を殺害を命じたりしている。

 いつの間にかヨーロッパはイスラムを受け入れることによって、中世の宗教が支配する火あぶりや魔女狩りがある世界に戻ってしまったという。

 確かに他の宗教を侮辱する行為は悪ではある。しかし、宗教に対する罪で、人が死刑になる時代はヨーロッパは中世で卒業し、新しい時代に入っていたはずである。

 それなのに時代の針が逆戻りしてしまった。そしてさらに悩ましいことは、例えばヨーロッパの指導者がそのようなイスラムの在り方を批判すれば、異文化を認めないのかとリベラルから攻撃を受ける。

 イスラムに対する意見、それ自体がタブー化してしまっているということだ。誰も表立って意見を言えない。そんな中で移民による性犯罪も増えている。しかし、警察も及び腰だという裁き方を誤れば警察組織も、移民差別だと叩かれかねない。

 そして、女性はすべて肌を隠しているイスラム圏から来た若い男にとって、素肌を露出してあるくヨーロッパ女性はどう見えるかと考えればおのずと結果は見えている。

 リベラル的考えで移民を受け入れた結果、ヨーロッパのリベラル的考え、男女平等や、同性愛に対する寛容などが破壊されるという悲劇。

 そして、何よりそれに対する意見がタブー視されているという現実。これは右左関係なく、冷静に議論し乗り越えなければならない問題だと思った。

 一方で、この本の価値を貶めているのは"中野剛志氏"。冒頭で、これは日本に対する警告だと、日本も同じだとさんざん煽り立てているが、これによってこの本の価値は大きく傷つけられた。彼はこの本で日本人のイスラム嫌悪を煽り立てているに過ぎない。

 そもそもヨーロッパと日本ではやってきている外国人の数が違う。そして日本は海に囲まれ、EUヨーロッパのように国境が解放されているわけでもない。

 移民はある程度なら、良い部分も多いし、外から、人が入ってくることは歴史の上では普通のことではある。

 このヨーロッパの問題を何の比較も数字もなしに日本に対する警告とはまったくただの煽りでしかない。

 唯一、言えるのは、移民を入れるなら社会に溶け込めるように留意し、ケアできる人数を社会的合意を形成しながら入れるべきということでしょうか。

 今の日本のやり方、研修生という形で入れて、低賃金で働かせ、その多くが日本国内で行方不明になっている。こんなやり方は管理できているとは言えないので、姑息な抜け道ではなく、しっかりと議論して移民を年間何人入れるのかをしっかり決めて、対応すべきということでしょう。

 ちなみに著者のダグラス・マレー氏も言葉選びは慎重ですが、ちょっと人種差別的な感覚の持ち主だなぁとは思いましたが、書いてある内容は読む価値は十分にあります。

 移民賛成の人も、移民反対の人も、保守も、リベラルも、一読の価値ありです。 

 

【目次】

[解説] 日本の「自死」を予言する書

イントロダクション

第1章 移民受け入れ論議の始まり

第2章 いかにしてわれわれは移民に取りつかれたのか

第3章 移民大量受け入れ正当化の「言い訳」

第4章 欧州に居残る方法

第5章 水葬の墓場と化した地中海

第6章 「多文化主義」の失敗

第7章 「多信仰主義」の時代へ

第8章 栄誉なき預言者たち

第9章 「早期警戒警報」を鳴らした者たちへの攻撃

第10章 西洋の道徳的麻薬と化した罪悪感

第11章 見せかけの相関と国民のガス抜き

第12章 過激化するコミュニティと欧州の「狂気」

第13章 精神的・哲学的な疲れ

第14章 エリートと大衆の乖離

第15章 バックラッシュとしての「第二の問題」攻撃

第16章 「世俗後の時代」の実存的ニヒリズム

第17章 西洋の終わり

第18章 ありえたかもしれない欧州

第19章 人口学的予測が示す欧州の未来像

あとがき(ペーパーバック版)


^ ^ 残虐行為はあったが他でもあったという理論にはその行為を正当化する理由にはならない。その行為は許されないことであったということは他でもやられていても変わらない。自分の祖先の悪行に子孫が罪の意識を負う必要はないというのはおかしい。祖先の英雄的行為を誇りに思い、その資産を経済的にも文化的にも受けていながら、そのマイナス面だけは免除されるはずだというのは辻褄が合わない。

 

ファシズムが歴史の彼方へと遠のき、ファシストたちの姿が目に見えなくなっていくほど、反ファシストを自称する人々はファシズムを必要とするようになった。さもないと自分たちには政治的な価値や意義があるのだと言う見せかけを維持することができないからだ。ページ370

 

 これはあらゆることで起きている現象だ。貧困を撲滅する団体が、真に飢える子供が国内から姿を消すと、相対的貧困という新しい概念を持ち出した。社会はそれを受けれるかどうか、もう一度立ち止まって考えるべきだ。まず、絶対的貧困から根絶すべきではないのか?それらは確かに見つけにくくなったかもしれないが確実に存在するだろう。隣の家の子供と違ってディズニーランドに連れて行ってもらえない子供を救うことの方が大切なのだろうか?ぼくは非情なのだろうか?

 

オランダの国会議員のヘルト・ウィルダースは、トルコのEU加盟を支持した自由民主国民党(VVD)から飛び出し、2004年に自らの新党を立ち上げた。その自由党(PVV)は初めて挑んだ2006年の総選挙で、オランダ国会の150議席9議席を獲得した。2016年の世論調査では、同党がオランダ切っての人気政党であることが示されている。自由党公認の国会議員の数は次第に増えていたが、実際の党員は今日に至るまでフィルダースただ1人だ。同党が最初に結成された時点で、ビルダーズ自身がそのことを明言していた。国民も自由党公認の国会議員も党員になることができない。そのためにビルダーズは政府からの多額の交付金(政党の規模に応じて支給される)を貰い損ねてきた。このようなやり方で自党を運営している唯一の理由を、ある時、彼は内々に説明したことがある。当院を公募などしたら、真っ先にオランダ在住のスキンヘッドが何人か入党して来かねず、そうなれば続いて入党しようとする人々が誰もいなくなるからなのだった。彼は一握りの本物のネオナチに国全体の政治的前途を台無しにさせるつもりはなかった。ページ372

 

^_^ これはなんというか。難しい。問題だろう。党は人を選ぶことができるか?ネオナチもどきが入党すれば対立する政治勢力に攻撃のそれも致命的な攻撃の口実を作る。我が国の維新とかいう政党も、ヤバイやつらがたくさん国会議員になっていて維新から除名された人たちがまた国会に新しい組織を作っている。

5章 買い物編 車の購入 月額65000円で生活するぼくが車を買うなら重視するなら年式か、走行距離か

 ところで中古車を買う際に重視すべきは「走行距離」か「登録年度」かという問題ががあります。

 せっかく車を買う予定があるので調べてみました。

 

 最近のクルマは信頼性が向上し、10年落ちぐらいの中古車なら大きな故障を心配する必要はなくなってきています。そのため価格の安い低年式車が魅力的に思えますが、現在は安全装備の進歩が目覚ましく、高年式車のほうが性能の高い自動ブレーキやクルーズコントロールが装備されているクルマが増えています。したがって先進安全装備が充実したクルマに乗りたいなら高年式車を選びましょう。 (中古車購入時に重視すべきなのは年式?or走行距離?のどちら?!より抜粋)

 今の時代、10年落ちぐらいなら大きな故障を心配する必要がないっていうのは、心強いですね。日本の自動車産業万歳ですね。 おかげで新車が売れなくて困ってるみたいですけど。

 そして安全装備重視なら、より新しい年式の車を選べはいいのですね。勉強になります。

www.goo-net.com

 

 例えば、年式が10年前のものでも走行距離が5万キロにも満たないようであれば、あまり使用頻度が高くない車であると判断できるでしょう。あるいは、最初の数年間は運転していたが、あとの数年はあまり乗っていなかったという可能性もあります。年式が新しいのに走行距離が極端に多い車の場合は、長距離運転が多かったことがわかります。

 これらのようなケースがありますから、何年落ちあるいは走行距離何キロなら問題ないとは一概には言えません。酷使されていない、かつ長期間放置もされていない車を選びたいのなら、年間の走行距離が8,000~1万キロ程度の車を優先的に選ぶと良いでしょう。(中古車を選ぶときは走行距離と年式、どっちを重視するのがベスト?より抜粋)

 これは中古車を買うときには盲点ですね。走行距離が短ければ良い車だと考えがちですが、あまりに走行距離が短い場合は、長い間放置されていた可能性があるということ。10年落ちなら8万キロぐらいは走っていないと、放置されていた可能性があるということですね。

前の所有者がどのように車に乗っていたのかによっても、車のコンディションは左右されてきます。定期的にメンテナンスをしっかりしてきた車が良いのであれば、レンタカーや店頭展示車のような法人登録車が狙い目です。法人登録車は個人が乗っていたものよりも整備が念入りに行われているため、多少は走行距離が多くても安心して購入できるでしょう。(中古車を選ぶときは走行距離と年式、どっちを重視するのがベスト?より抜粋)

 実はレンタカーがねらい目だとは驚きですね。確かにレンタカーなら、一般車より整備に目が行き届いている可能性が高いですからね。

  

「走行距離10万キロ走ったら車の寿命が尽きる」という話がありますが、これはほとんどの場合あてはまりません。普通車の場合、安全に走行できる距離は40万キロ以上です。現に、タクシーの走行距離の目安は40万キロ程度とされているので、普通車にも同じことが言えます。

 メンテナンスさえしっかりとしていれば、10万キロ以上の走行距離があっても全く問題はありません。安全に走行できさえすれば良いという考えであれば、10万キロ以上走っている中古車の購入も視野に入れて良いでしょう。(中古車を選ぶときは走行距離と年式、どっちを重視するのがベスト?より抜粋)

  これも激安中古車の購入を考えているものとしては、心強いですね。それにしてもタクシーの40万キロというのはすごい距離ですね。地球の赤道一周が約4万キロですから、地球10周ということです。おどろきです。

 

www.nextage.jp

 ということで、結論としては、

 

1 古いのにあまりに走行距離の短い中古車は避けるべき。

2 走行距離、年式共に重要だがメンテナンスの状態も重要。

3 10年、10万キロ共に昔ほど心配しなくてもよい。

 

と、いうところでしょうか。

 いったんの結論としてはやはり前回のプリウス同様、ヤフオクで購入したいと思います。予算はやっぱり厳しいのですが・・・。

 

5章 買い物編 車の購入 月額65000円で生活するぼくは価格の高い軽自動車を買うべきか、税金の高い普通車を買うべきか?

 今回は中古車を買うにあたって軽自動車がいいのか、普通車がいいのか、検討してみたいと思います。

 

 まず税金の比較から、6年乗る場合を想定したいと思います。

 まず毎年掛かるものとして、自動車税

 

 中古で古いものを買うという前提で、

自動車税 軽自動車       12,900円×6年=77,400円

自動車税 普通小型車(ポルテ) 39,600円×6年=237,600円

差額 160,200円

 

自動車重量税 普通小型車(ポルテ) 12,300円×6年=73,800円

自動車重量税(軽自動車・13年超過) 4,400円×6年=26,400円

差額 47,400円

 

トータル差額 207,600円

 

税金だけで差額20万円以上ということになりますね。

 

ヤフオクで車体価格を見てみましょう。

まず軽自動車です。

タントL   2010年(9年落ち)  9.4万km 支払総額 約21万円

タントL   2012年(7年落ち)    15万km 支払総額 約18万円

タントX  2004年(15年落ち) 5,5万km 支払総額 約19万円

タントX  2010年(9年落ち)  9.6万km 支払総額 約20万円

タントカスタムRS  2006年(13年落ち) 9.6万km 約18万円

 

タント(軽自動車)  平均10.6年落ち〇  走行距離9,8万km

 

そして普通自動車ポルテ

 

ポルテ 2013年(6年落ち) 1,8万km 支払総額 約20万円

ポルテ 2007年(12年落ち) 11,3万km 支払総額 約19万円

ポルテ 2010年(12年落ち) 8.5万km 支払総額 約21万円

ポルテ 2006年(13年落ち) 7.2万km 支払総額 約19万円

ポルテ 2007年(12年落ち) 7.1万km 支払総額 約17万円

 

ポルテ(普通車)  平均11.0年落ち  走行距離7,2万km〇

 

 特に普通車だから激安というわけではなさそうです。走行距離が短いというのはメリットかも知れませんが、運用時の税金の差が埋まるほどとは思えませんね。

 いや、いっそ、あえて、税金20万円の差を埋めるほどの価格差となると0円ですから無理です。

 そこである程度、価格差を埋められる価格5万円程度で探してみましょう。

 

ポルテ 2006年(13年落ち) 5.4万km 支払総額 約5万円

ポルテ 2006年(13年落ち) 5.3万km 支払総額 約5万円

ポルテ 2006年(13年落ち) 8.1万km 支払総額 約6万円

ポルテ 2009年(10年落ち) 11.2万km 支払総額 約2万円

ポルテ 2004年(15年落ち) 5.5万km 支払総額 約7万円

 

ポルテ(普通車・5万円程度)  平均13年落ち  走行距離7,1万km

 

 わかったことは初年度登録の13年目を超えると価格が安いものが多くなるといういうことですね。初年度登録から13年経ると自動車重量税が15%増えるという税の制度が影響を与えているようです。

 どうもポルテは走行距離が短めということになっているようです。

 軽自動車のタントと比べてみましょう。

 

ポルテ(普通車・5万円程度)  平均13年落ち  平均走行距離7,1万km

タント(軽自動車)  平均10.6年落ち〇  走行距離9,8万km

 

 これで「車体価格+6年間の税額」の差額が5万円程度ですね。

 

 4人乗りのタント(軽自動車)か、6年で5万円足して、5人乗りのポルテ(普通自動車)か。

 

 いやもっと考えてみましょう。タントの方が2年間新しいという点があり、これは2年間長く乗れると考えることができます。

 

 ポルテを6年乗り、タントは8年乗れると考えると、年間費用はいくらになるでしょうか。

 

 ポルテ 車体価格5万円 6年で割ると 8,334円

 自動車税 年額(13年超過) 39,600円

 自動車重量税 年額 12,300円

 

年額 60,234円

月額 5,019円

 

 タント 車体価格20万円 8年で割ると 25,000円

 自動車税 年額 12,900円

 自動車重量税(13年超過) 年額 4,400円

 

年額 42,300円

月額   3,525円

 

 こう考えると月額1,500円を余計に払って、軽自動車ではなく、普通自動車に乗る価値があるのかが、問われているということかも知れませんね。

 

 ぼくとしてはどちらかと言えば、軽自動車に傾いていると言えるかも知れません。

 

 

 

 

5章 買い物編 車の購入 月額65000円で生活するぼくが車を買うなら車屋さんか、ヤフオクか。

 さて、では仮に車を買うとすると、20万円でどんな車が買えるのか。

 それを調べてみることにしました。

 まず、真っ先に思いつくのが、ふつうの中古車屋さんですね。

 今はネットで価格を調べられるので調べてみましょう。

 とりあえず欲しいなと思っているのが税金のやすい軽自動車。

 大人4人が乗ることを考えて、社内が広めで、販売台数の多いダイハツのタントを狙ってみましょう。

 とりあえずグーネットという中古車検索サイトでタントを探して支払い総額20万円をピックアップしてみると全国で40台ありました。

 とりあえず比較しやすく条件をそろえるために

「支払総額20万円」

「修理歴なし」

「車検整備付」

「保証付き」から

5台ピックアップしてみました。

 

タント L  2008年(11年落ち) 10.0万km  (保証1か月 1000km Tベルト交換)

タント VS 2007年(12年落ち) 14.0万km (保証1か月 1000km)

タント L  2004年(15年落ち)  6.6万km (保証6か月 6000km)

タント L  2005年(14年落ち)  9.6万km  (保証1か月 1000km)

タント Xlimi 2004年(15年落ち)    12.3万km (保証1か月 1000km)

 

 なぜ、保証付きを選ぶかといえば、中古車屋さんの立場に立てばわかります。

 「保証付き」の車と「保証無し」の車が一緒に売られているなかで、保証をつけた方が高く売れるのにあえて「保証無し」で販売しているのはなぜか?

 それは車体をくわしく見ているプロの販売店側が、この車は「保証できない」と判断しているから。

 「保証無し」の一台を買うということは、プロの販売店がピックアップした「問題あり」の車をわざわざ選んで買うことになりかねないのです。

 

 そしてさらに、販売店で買う最大のメリットがオークションにはない、この「保証」ではないかと思うのです。たとえ、たった1か月でも、その間は大丈夫と販売店側は判断して売っているわけです。

 せっかくお店で買うなら「保証あり」を選ぶべきだと思いませんか?

 

 では次にヤフオク!で20万円前後での取引履歴を見てみましょう。車検2年付、修理歴なし。

タントL   2010年(9年落ち)  9.4万km 支払総額 約21万円

タントL   2012年(7年落ち)    15万km 支払総額 約18万円

タントX  2004年(15年落ち) 5,5万km 支払総額 約19万円

タントX  2010年(9年落ち)  9.6万km 支払総額 約20万円

タントカスタムRS  2006年(13年落ち) 9.6万km 約18万円

 

若干、年式が新しくなっていますね。

ちなみに他のサイトでも誤解しているところが多いのですが、

高年式=新しい

低年式=古い

ということです。

これがまったく逆になっている車の紹介サイトもあるので、要注意です。

 

ほんとーにざっくりですが、比較すると、

ぐーねっと 平均13.4年落ち   平均走行距離10.5万km

ヤフオク  平均10.6年落ち◎  走行距離9,8万km〇

 

 たった5つずつのサンプルなので、断言はできませんが、ヤフオクの方が平均で約3年程度新しい中古車が買えていますね。

 これとヤフオクの「保証なし」と、通常の販売店さんの「保証あり」との兼ね合いをどう考えるかでしょう。

 なぜヤフオクの方が安いかと言えば、素人が自分の愛車を利益を考えず出品している場合はもちろん、プロでも副業だったり、無店舗販売なので展示場が必要なかったりするので、安く販売できるようです。

 

 

不安と恥が資本主義を回している『茂木健一郎が「永遠の5歳児」を自称するワケ』

「年を取るのは不幸だ」というのは思い込みにすぎない。脳科学者の茂木健一郎氏は「脳は外からの固定観念にとらわれやすい。年齢をものさしに考える癖がつくと、発揮できる能力を発揮できないままに終わってしまうことになる」と指摘する――。

 ※本稿は、茂木健一郎『ど忘れをチャンスに変える思い出す力』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。

 

 

■「年齢」を「自分らしさ」にしている

 これからの時代は、男らしさ、女らしさなど、ありとあらゆる「らしさ」が取り除かれていく時代になります。

 私たちが無意識のうちにまとっている「らしさ」の一つに、年齢があります。

 われわれは「まだ何歳だから」「もう何歳だから」できないとか、あの人は「同じ世代」だからつき合いやすい、「違う世代」だからつき合いにくいというように、年齢で他人の能力・人物像をステレオタイプに判断してしまいがちです。

 これは「エイジズム(年齢差別)」と呼ばれ、男女差別と同じように、撤廃が叫ばれている重大な差別です。

 

 年齢というものが、人を区別するのに非常に便利だから、利用されている面はある。男女も同じで、男だから力仕事、女だから育児と決めつけるのはとても楽で社会的にもショートカットになった。

 しかし、それではいけないという考えが出てきた。性別ではなく個人を見ろと。

 同じことが年齢でも起きているということだろう。社会は年齢で区別するという楽なショートカットを捨てられるだろうか。

 しかし、まぁ、ここのポイントは社会ではなく、個人。社会の判断を自分個人の判断として受け入れるかどうかという問題なのだろう。

 社会がもう○○歳なのだからという視点で自分を見てくる中で、それを受け入れ、社会が期待する○○歳を生きるのか、それを乗り越えて自分自身で判断し、人生を決断するのかということだろう。

 ぼくも○○歳なんだからという社会の視線を乗り越えて生きていきたい。なぜなら、年を取れば取るほど、社会は年齢による縛りを強めて、自由な人生の選択を奪っていくのだから、社会から与えられる年齢による判断を受け入れていたら人生はどんどんつまらなくなり、最終的には縁側で猫をひざにのせてお茶を飲むことしか許されなくなってしまう。(それそれで魅力的か?)

 

■あらゆる年代の人が「年齢差別」を感じている

 2017年に行われたTEDカンファレンスで、「エイジズムに終止符を! 」というトークがとても評判になりました。ニューヨークの作家兼活動家で、1952年生まれのアシュトン・アップルホワイトさんが、われわれは人種差別や男女差別、いろいろな差別をなくそうとしてきたけれど、年齢による差別が残っている、もうエイジズムをやめようと訴えました。

 僕はその会場にいたからよく覚えているのですが、そのトークは、どんな世代の人からも賞賛を浴びていました。「そうそう、私もそういう扱いをされたことがある!  それはやっぱりおかしいよね? 」とほとんどの人が共感できるほどに、エイジズムは世の中にはびこっています。

 残念ながら、日本は国際的に見るとエイジズムが強い国だと言わなければなりません。しかし、日本に限らず、どの文化圏でもエイジズムはあって、特に女性は男性以上にエイジズムの対象になりやすいところがあります。

 

www.ted.com

 

「エイジズムは未来の自分への差別」という言葉に痺れた。確かにそうだ。

 

「満ち足りた気持ちからは搾取はできないが、恥や恐れという感情は市場をうみます」というセンテンスもいい。確かにそうだ。そう考えると資本主義の発展が人の幸福に思ったより貢献できていない理由も見えてくる。

 なぜなら人々を恥じ入らせ、困惑させ、恐れさせ、怒らせ、悲しませ、絶望させておいた方が、お金が儲かるからだ。需要が生まれ、GNPが上がるからだ。

 保険のCMは楽しい番組の合間に「がんになったら治療費どうしよう」と恐れさせ、証券会社のCMは「老後のお金が足りない怖いけど投資を始めなきゃ」と不安をあおり、しわ伸ばしのCMが眉間のシワが最近深くなってきたことを恥じ入らせる。

「もう大丈夫です、あなたはなんの心配もいりません」というCMは見たことがありません。あっても、最後にこう付け加えられます。「もう大丈夫です、あなたはなんの心配もいりません、わが社の製品を買えば・・・」

 

■年齢をものさしにしていると脳の元気がなくなる

 われわれは小学校の頃から学年主義を押しつけられてきました。5年生の次は6年生で、次は中学生で、その後は高校に行って……と人生はベルトコンベアのように、年齢とともに一定のスケジュールで動いていくと考えがちです。

 しかし年齢をものさしにして物事を考える癖がついてしまうと、他人だけではなく自分も不幸になります。

 こんなふうに外から与えられた文脈に素直に適応していると、たとえば55歳くらいになると、「そろそろ会社では終わりのほうだ」、60歳になったら「定年で再雇用だ」「自分の人生は徐々に収束していかなければならない」と考えるようになります。本当はまだ元気なのに、自分から勝手に思い込むと、脳は「そういうものなのかな」とその文脈に適応して、自ら元気をなくしてしまいます。

 脳は、外から押しつけられる文脈、固定観念にとらわれやすいものです。

 それに素直に従っていると、発揮できる能力を発揮しないで終わってしまうこともあります。

 

 そう考えると、学校教育から、変えていく必要があるのかも知れない。6歳になったら自動的に義務教育が始まるのではなく、早熟であれば、もっと早く、場合によってはもっと遅く、始めるという考え方もアリだろう。

 一律に6歳とすれば行政としては運営しやすいだろうが、6歳で学校教育に適応できるところまで成長した子もいれば、そうでない子もいる、それをしっかり見極めるシステムをつくる。それが必要なのかも知れない。

 その為に相当の意識改革が必要になるだろう、必死に4歳で小学校に入れようなんて考える親が出てきかねないから。

 

■永遠の5歳児として、一日中楽しんで生きていく

 僕自身は、現在50代ですが、永遠の5歳児として生きていこうと思っています。僕は朝から晩まで、ずっと「フロー」の中で生きています。「フロー」は、アメリカの心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した概念で、一つひとつの「課題」に最高に集中した心理状態を指します。5歳児は、何をやっても新鮮で、夢中になって、飽きることがない、フローの中で一日中生きている存在と言えます。

 フローの中では、時間の経過を感じず、自分の存在を忘れて、その課題と一体化し、最大限に楽しんでいる。そういう状態が一日中続いているというのは、もちろん、一つのことだけをずっとやっているということではありません。一つの課題に疲れてきたら、別の仕事に取りかかったり、走りに行ったり、人に会いに行ったり、何かを食べたりして、一日中どんな課題も、時間を忘れて楽しんでいるという意味です。 

 

 5歳児という表現が正しいのかやや疑問は感じる。5歳児でもいろいろ心配し、気を散らしてしまう子もいるだろう。

 しかし、フローの中で生きるという考え方には賛成する。禅や、ヨーガで言う三昧に近いもので、いやいややって思考をさまよわせるぐらいなら、没頭する方がいい。

 場合によってはたとえ効率が悪くても(集中しすぎて失敗というのもある、でもふつうは没頭していたほうが効率もいいはず)、没頭できればその瞬間にも幸福という報酬を受け取ることができる。

 終わったら遊びに行こうとか、アイスクリームを食べようとか考えなければやっていられないようなことなら、なるべく避けて生きていくべきだろう。(すべてを避けるのは難しいだろうが)。禅でも掃き掃除や拭き掃除でも没頭できるのだから、たいていのことではフローに入ることができるだろう。

 とくに仕事にするなら、自分がフローに入れるようなものを選ぶべきだろうし、逆に言えば自分がフローに入れるようなことを、仕事する方法を考えるべきだろう。

 

■若いときの方が「オジサン」だった

 そんな5歳児の暮らしを身につけた僕ですが、僕にもいわゆる「オジサン」時代がありました。型にはまっていた時代です。むしろ若いときがそうでした。大学生は大学生らしくしなければならない、博士号を取ったのだから、博士号を取った人らしくしていなければならない、と考えていました。

 東大に通っているということで、エリート主義になったり、どこかもったいぶったり、僕の脳が文脈に過剰適応してしまっていたのです。

 若くしても「オジサン」のようになることはあるし、一度「オジサン」になってしまってもまた5歳児に戻ることができます。「らしさ」を獲得しようとするのは脳の癖であり、「強み」であると同時に「弱み」でもあるのです。

 ですからみなさんも、5歳児を目指してみませんか? 

 

 確かに考え方に柔軟性が失われていた時期というものが、自分の中にもありました。あれもだめ、これもオカシイと。

 今はあれも良し、これもヨシという感覚になりつつあります。

 

■「年を取るのは不幸」は間違った思い込み

 あなたは、さまざまなシチュエーションで、人に年齢を聞いてはいませんか? 

 もし聞いているとしたら、それは何のためですか? 

 他人に対して気にしていることは、実は、自分に対して不安に思っていることなのです。

 われわれは、年を取ることにネガティブなイメージを持っています。年を取ることは、坂を下ることで、だんだんと惨めになると思っています。

 先ほど紹介したアップルホワイトさんは、それは事実ではないと言います。たとえば、若い人は死を恐れ、忌み嫌いますが、そのような死に対する恐怖は、年を取ったほうが少なくなり、人生で最も幸福感を抱くのも、年齢が上がったときであると語ります。実際、人間の幸福度は、年を取れば取るほど下がるわけではなくて、U字型になる(つまり、子どもとお年寄りが特に幸せ)というエビデンスがあります。

 年を取ることについて、われわれは間違った思い込みをして、勝手に不幸になっているのです。アップルホワイトさんによると、女性が不幸になるのは、女性だからではなくて、女性差別があるからで、年を重ねた人が不幸になるのは、体や認知機能が多少衰えたからではなくて、それに対する差別があるからなのです。

 

 この手の議論でいつも思うのは腕を失った人間が10不幸だとすると、前足を失った猫は2ぐらい、もしくは1不幸ぐらいでしかないということ。

 なぜなら、猫は自分に前足が無くなったということをクヨクヨ考えたりしないから。

 年を取る不幸があるとしたら、その70%が自分で自分が年を取ったから不幸だと考えることで生じ、25%は周りからの受ける年を取ったと思われる評価から生じ、残りの5%が実質被っている老化による不幸だと思うのです。

 もちろん、周りの人の評価が自己評価と密接にリンクしているので、その辺りは自分と他人両方を変えていかなければならないので難しいかも知れません。

 それでも一番手っ取り早いのが、自分で年を取ったとクヨクヨ悩み自分を傷つけるのをやめることですから、社会改革はまず自分からということでしょう。

 

■「脳の使い方」が偏っていることに問題がある

 われわれの「年齢」に関する不安の一つに「記憶」の問題があります。

 われわれは、思春期には学校でさまざまなテストを突破すること、青年期、壮年期では会社などで成果を挙げることを期待され、常に記憶力を試されてきました。さらに高齢になると、記憶力に問題の出るアルツハイマー認知症などの病気のリスクも高まります。

 人生100年時代と言われますが、記憶にまつわる心配事に、われわれは常にさらされているわけです。

 僕は、脳の使い方に偏りがあることが問題だと思っています。

 一度きりの人生ですから、頭も体も、自分の持っている機能は、フルに使いたいところですが、脳の使い方にも人によって癖があり、いつも決まった回路を決まったパターンで働かせてしまう傾向があります。

 

 学生時代はずっと記憶力を試されていた気がするが、今、スマホ時代になって、わざわざ覚えておくということの重要性は下がっているといえるので、年を取るにはいい時代になったと言えるのかもしれない。

たいていのことはうっすら覚えておけばいいわけで、「上方、落語、眼鏡」と入れて検索すれば、「桂文珍」だとGoogle先生が教えてくれるのですから。

 

■「思い出す回路」を強化するほどクリエイティブになる

 記憶には、「覚える」「保存する」「思い出す」という3つのプロセスがあります。ですが情報過多の現代人は、「覚える」「保存する」のインプットを重視して、「思い出す」をおろそかにする傾向があります。

 しかし今や、情報や知識をインプットすることについては、人間はもはやAIに太刀打ちすることができません。これからの時代、「覚える」「保存する」だけでは限界があり、「思い出す」ことを取り入れることこそが重要なのです。

 「思い出す」なんて、年を取った人が、過去をなつかしむだけの行為だと思っている人もいるかもしれません。しかしそれは大間違いです。

 脳が思い出そうとしている時に使う回路は、脳が新しいものを創造する時に使う回路と共通することがわかっています。つまり思い出す回路を強化すればするほど、物忘れをしなくなるだけにとどまらず、クリエイティブな能力を高めることができるのです。

 まさに現代にこそ必要とされる「思い出す力」ですが、それを強化するのは誰でも簡単にできます。毎日の生活の中でほんの少しの時間、意識するだけでも十分。もっと言えば、ボーッとするだけでも効果があります。

 思い出す力を存分にいかすこと。それがAI時代に必要とされている新しい脳の使い方なのです。

 

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茂木 健一郎(もぎ・けんいちろう)
脳科学
1962年生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学院理学系研究科修了。『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞受賞。『幸せとは、気づくことである』(プレジデント社)など著書多数。
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脳科学者 茂木 健一郎

 

 ちゃんと覚えておくことより、なんとなく忘れかけていたほうが、思い出した時に他の記憶と混じったりして、新しい何かを生み出せるということだろうか。

 

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その場所で咲く『【出口学長の哲学と宗教講義】ダーウィンの進化論とストア派の哲学が教えてくれた「働き方の真髄」とは?』

 世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)学長。歴史への造詣が深いことから、京都大学の「国際人のグローバル・リテラシー」特別講義では世界史の講義を受け持った。
その出口学長が、3年をかけて書き上げた大著がついに8月8日にリリースされた。聞けば、BC1000年前後に生まれた世界最古の宗教家・ゾロアスター、BC624年頃に生まれた世界最古の哲学者・タレスから現代のレヴィ=ストロースまで、哲学者・宗教家の肖像100点以上を用いて、世界史を背骨に、日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説したとか。
なぜ、今、哲学だけではなく、宗教を同時に学ぶ必要があるのか?
脳研究者で東京大学教授の池谷裕二氏が絶賛、小説家の宮部みゆき氏が推薦、原稿を読んだ某有名書店員が激賞する『哲学と宗教全史』。超多忙の出口治明氏を直撃した。(構成・藤吉豊)

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哲学と宗教全史

哲学と宗教全史

 

  これは読みたい。覚悟がいる厚さらしいが。でも近隣の図書館にはなく、値段もなかなか。

 

● 川の流れに身をまかせる

 ――出口学長はたくさんの著書をお持ちですが、これまで1冊も、哲学や宗教を掘り下げた本を出されていませんでした。なぜ今、このタイミングで『哲学と宗教全史』を書かれたのですか?

 出口:それは簡単な話で、今までどの出版社からも「哲学の本を書いてください」という依頼がなかったからです(笑)。
僕は、ダーウィンを信奉しているので、人生は偶然の産物だと思っていて、「川の流れに身をまかす」のがモットーです。自分から「こんな本を書きたいです」と出版社に企画を持ち込んだことは一度もなくて、どの本も、すべて、流れにまかせて書いてきました。
もちろん、与えられた役割を全力でこなすのが前提ですが、ちょっとした出会いや偶然をベースに生きているのが、人間という動物です。

 僕が日本生命に入社したのも、ライフネット生命を立ち上げたのも、APU(立命館アジア太平洋大学)の学長に就任したのも、すべてさまざまな巡り合わせや偶然によるものです。
川の流れに身をまかせると、どこに着くかはわからない。わからないけれども、着いたところで頑張ればいいと僕は思っているのです。

 

 このどうにもならない部分と、どうにかなる部分をきちんと見極める姿勢には共感できる。

 なんというか風で走るヨットというか。状況に抵抗するのではなく、状況を最大限生かし、その中で輝くという感じだろうか。 

 

 ――出口学長は、日本生命時代に、関連会社への出向を命じられましたよね。明らかな左遷人事だと思うのですが、そういうときでも悩んだりせず、「川の流れに身をまかせよう」と割り切れたのですか?

 出口:その理由は、僕と当時の社長の哲学の違いです。「海外進出したほうがいい」という僕に対し、社長は「国内の他社のシェアを奪えばいい」と考えた。出世したければ、トップに尻尾を振ればいいわけですが、僕は尻尾を振れないタイプですから(笑)。

 「こんなひどい人事はない、社長を訴えてやれ!」と息巻く同僚もいましたけれど、トップとぶつかったら異動されるのは当たり前なので、そんなことでクヨクヨするのはアホらしい。恨んでもしかたがない。
組織の人事とはそういうものだから、まったく落ち込みませんでした。それどころか、出向したら一般には暇になるので「たくさん本を読んでやろう」と考えていましたね(笑)。

 ――たしかに出口学長には、「クヨクヨするイメージ」がまったくありません。いつもサラッとした生き方をされているように思えます。なぜでしょう?

 出口:人生を無駄にするのは、「すんだことに愚痴を言う、人を羨ましいと思う、人によく思われようとする」、この3つです。

 

 この『人生を無駄にするのは、「すんだことに愚痴を言う、人を羨ましいと思う、人によく思われようとする」、この3つです。』という一文は額に入れて飾っておきたいぐらいの言葉だと思います。

 

「すんだことに愚痴を言う」 これは過去に生きないということで、過去から学んだことを今に生かす、過去変わらないのだから拘泥しないということ。肝に銘じます。

 

「人を羨ましいと思う」 これは他人と比較することで自分を傷つけるということですね。お金持ちになってももっとお金持ちが羨ましくなりますし、モテてももっとモテる人が羨ましかったりします。自分は自分、人は人。自分が羨ましいと思っている人も実は誰かを羨ましいと思っていると考えると、人を羨ましがるのが馬鹿らしくなります。

 

「人によく思われようとする」 これもとても大切ですね。人によく思われようとするのことは、自分の生き方を他人の評価に委ねること、もっと言えば人生を他人に支配されることでもあります。そしてそれはとても苦しい上にたいてい死ぬ前に後悔する典型的パターンでもありますよね。

 

 すんだことは覆せないし、僕には才能がないから他人を羨んでもしかたがないし、自分のことを誰よりもわかっているのは自分なので、他人の目を気にしても意味がない。他人に何を言われようと、僕は僕ですから。
僕にできることは、川の流れに身をまかせて、たどり着いた場所で全力を尽くすことだけ。そのことがわかっていたから、およそどう事態が転んでもクヨクヨすることはありませんね。

 

 晴れていれば晴れていて楽しいことをやり、雨の日には雨の日に楽しいことをやる、仲間がいれば仲間と楽しいことをやり、一人の夜は一人で楽しいことをやる。そういうことでしょう。

 

● 人間にできることは、 「適応」することだけ

 ――「川の流れに身をまかせる」というのは、自分に与えられた運命に逆らわない、という運命論な考え方なのですか?

 出口:運命論というよりも、ダーウィンの進化論です。僕の世界観、人生観におそらく一番影響を与えたのは、ダーウィンです。
ダーウィンの進化論をひと言で説明すると、「運と適応」です。運というのは、適当な時期に適当な場所にいることです。
「世の中は何が起きるかわからないのだから、そのときに適応したら生き残るし、適応できなかったら滅んでしまう」というのがダーウィンの基本的な考え方です。

 「人間は、周囲の状況の変化に合わせた適応しかできない」という考え方は、ストア派にも近いと思います。

 ――ストア派というのは?

 出口:ヘレニズム哲学の一学派です。ストア派の哲学者たちは、「自然の理法は、大河の流れのように、世界をつくり続けて過去から未来へと時間をつなげていく。その悠久の流れの中で我々は生まれてきたのだから、そのように与えられた人生を堂々と生きればよい」と述べています。
自然の理法に従って、今の自分に生まれたのであるから、その定めを真正面から受け止めて積極的に生きることを説いているんです。「与えられた人生を生きる」という視点は、ダーウィンと同じですね。

 

 ストア派の関連書籍を読んでみたくなりました。

 

ローマの哲人 セネカの言葉

ローマの哲人 セネカの言葉

 
自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 

 

● 出口治明が、 これからやってみたいこと

 ――出口学長がやりたかったこと、これからやってみたいことはありませんか?

 出口:APUをよりよくしたいことのほかには、まだ、やりたいことがよくわからないのです(笑)。

 ――71歳になっても、まだやりたいことがわからないのですか?

 出口:「還暦でベンチャー企業をつくって、古希で大学の学長をやって、次は何をやりたいのですか?」と質問をいただくのですが、いつも「ありません」と答えています(笑)。
今はAPUの学長をやっているので、「APUをもっといい大学にしたい」「学生も教職員もワクワクドキドキできる大学をつくりたい」と思う以外に考えたことはないのです。

 やりたいことがある人は、それに向かってチャレンジをすればいい。けれど、僕のように適性ややりたいことがわからない人は、川の流れに身をまかせ、今いるところで一所懸命やってみたらいい。将来、何が起きるかわからないほうが、人生は楽しいと思います。

出口治明

 

 将来何が起こるかわからないから人生は楽しいと言える71歳ってすごい。と思いつつ。年齢にこだわっているインタビュアーと自分。

 子供でも、爺さんでも、与えられたのは今日一日、この一瞬なのだから、それをどうするか、ということだけ。頭ではわかっているのですが・・・。

 

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