『完全な人間を目指さなくてもよい理由-遺伝子操作とエンハンスメントの倫理-』書評・目次・感想・評価
【『完全な人間を目指さなくてもよい理由-遺伝子操作とエンハンスメントの倫理-』目次と読書メモ】
序言
^_^ 序言とありますが謝辞です。基本、謝辞はつまらないんで、 読まないんですが、最初にあったので読んじゃいました。 やっぱりつまんない。知らんよ。 そんなの本人に直接言えよっていつも思う。 金払ってなんで私信を読まされるんだよって思う。
第一章 エンハンスメントの倫理
不安の明確化
遺伝子操作
遺伝子操作
筋肉/記憶/身長/性選択
エンハンスメントとは強化のこと。 遺伝的な手法で運動能力や知力をあげるのは是が非か。
第ニ章 サイボーグ選手
スポーツの理想
ー努力 対 天賦の才ー
パフォーマンスの向上
ーハイテクとローテクー
ゲームの本質
^_^ 知らなかった。これをドーピングとして嫌う人がいるらしい。 でも外科医が使うのは良いんだよね。ショーではないし。
^_^ サンダルはスポーツは上、 見世物は下と言う前提で話を進めている。 そこにまず違和感がある。倫理は人それぞれ、尺度が違うので、 それぞれルールを決めたリーグや団体を作るしかないのかも知れな い。そしてその評価は経済的成功や、 支持する人の数によって行われる淘汰されていくだろう。 薬剤を使わないドーピングも認めず、 ドーピング検査ばかりやっている競技を人々が支持し続けるだろう か? 自転車競技でずっと賞賛してきたアームストロングのような選手が 実はドーピングでとなると、 もはや純粋に競技を楽しめなくなるだろう。 このままドーピング検査を厳しくするのがいいのか、 全く解放してしまうのがいいのか悩ましい。 ドーピングを許可してしまえばあとから裏切られた気持ちにはなら なくなる。
第3章 設計される子供、設計する親
型取りと見守り
子供のパフォーマンスへの圧力
子供に対しては授かりものという意識があったが、 その感覚が希薄となり親がデザインして作り上げるものという思考 が、広がりつつある。
その結果の過干渉であり、遺伝子操作であり、 リタリンなど薬剤の仕様である。
子供というコントロールできない存在、 招かざるものに対する寛容が失われつつある。
それは不穏な優生学への足音が聞こえてくる。
競争と他人との競争での卓越に荷重が置かれすぎているのではない だろうか?お花畑だと笑われるかも知れないが、 みんな違ってみんな良しでいいのではないだろうか? 運が良ければ人より上に行くこともあるだろうが、 それぞれが競争ではなく、 てんで好きなことをやって幸せを追求する世界、 そんな人生を送れる世界があるべき姿なのではないだろうか? 一方向にみんなで競争して走って行くより、 その方が人類は発展し、 環境の変化にも対応できるのではないだろうか?
第四章 新旧の優生学
大自然が無計画に、時間をかけて、 しかも無慈悲に成し遂げてきたことを、 人間は先見の目を持ちながら、素早く、 しかも親切にやってのけられるだろう……我々の決闘の改善は、 心見るに値する最高の目標の1つであるように、私には思われる( フランシス・ゴルトン卿 優生学の始祖)
^_^ 思わず納得してしまいそうな、内容ではある。 われわれはその行った先を知っているから、うさん臭く思うが、 当時の人が皆その話を支持したのもよくわかる。
暗黒名言
いつの日か、われわれは認識するようになるだろう。 自分たちの血を後世へと受け継ぐのは、 優れた部類に属する善良な市民にとって至高かつ不可避の義務であ ると言うことを。 そして劣った部類に属する市民を長々とのさばらせておいてはなら ないと言うことを(セオドア・ルーズベルト)ページ69
暗黒名言
^_^ これを読むと優生学がいかに人々に受け入れられていたかがよくわ かる。 日頃名言としてリストアップすることの多い現在も偉大な人と言わ れている人たちが皆支持していたと言うことである。 そして今その言葉を聞くととてもキナ臭い。 として我々は偉人の言葉と言えど無批判に受け入れてはいけないの だ。
^_^ その昔、ウィザードリィというゲームをやるとき、 ランダムで与えられるキャラクターのボーナス値の高い値を目指し て、延々とキャラメイクしていた覚えがある。 別に他人との競争するわけではないし、 通常のボーナス値でもゲームを楽しめるのだが、 何時間でもキャラクターを作っていた。 ゲームのキャラクターですらこれであるから、 おそらく親は出来るならあらゆる方法で、子供に有利な形質を、 与えようとするだろう。何しろ、 現実世界ではキャラメイクされた人間との競争というより一層の強 い動機があるのだから。
第五章 支配と贈与
謙虚、責任、連帯
反論
支配のプロジェクト
要約
遺伝子操作が行われるようになると、 例えば何らかの障害を持って生まれてきたときにそれは不運な偶然 によって、損害を受けている救済すべき人ではなく、 やるべき遺伝子操作をせずに不遇に陥っている愚かな存在となり社 会的に救済する意義を失ってしまう。
そうなると、 遺伝子操作をしないと言う選択自体が大きな責任をもたらす。 そこに自己責任が生じるのだ。
さらに言えば、 様々な人々が暮らせる世界を作ると言う人間の理想が失われ、 社会に合わせた人間を作り上げると言う人類の一種の無力化とも言 える状態になる。
^_^ さすがサンデル。納得。しかし、 人類は手に入れた科学技術は使わずにはいられない。 こうした倫理は科学技術の浸透に対する摩擦ぐらいにはなるだろう が、 やがて遺伝子操作によるエンハンスメントは当然のように普及する だろう。 そうなったとき人類は遺伝子操作をしていない人に対しての友愛の 感情を持ち得るだろうか?
エピローグ 胚の倫理
ー幹細胞論争ー
幹細胞の諸問題
クローン胚と予備胚
クローン胚と予備胚
胚の道徳的地位
論証の分析/含意の追求/尊重の担保
胚自体が人と同じ権利を持つか?という問いの答えはNOである。
産科クリニックが火事に会い、 5歳の女の子と胚20個とどちらかしか助けられないとしてどちら を助けるかで、胚20個と答える人はまずいない。
かといって胚をぞんざいに扱っていいというわけではない。 人間と同価値か、価値がないかの二元論ではない。
樹齢100年のセコイアは人間ではないが、 それ相応に尊重される。胚にもそれなりの尊重が求められる。
したがって化粧品の開発などに人間の胚を使うとなれば問題になる だろう。
胚は人間でないとすると、どこから人間か? 恣意的でない区別ができないのだから胚は人間というのは、 麦が何粒から山か?と問うているのと同じで愚かなことである。