人生は皮肉なもので、苦手なこと、つらいと感じることほど、長い。(だから他の道を探そう、と言う話)

 得意ではないので、普通の人より、2倍の時間が掛かったとする。 やりたくないことなので、普通の人より、2倍苦痛を感じるとする。すると時間が2倍×苦痛が2倍で、人生に4倍の苦痛がもたらされるのだ。そりゃ人生が苦しくなるわけだ。  

 

 ここまで生きてきて気づいたのだが、人は好きなこと、得意なことをするのが、一番賢い戦術だ。

 

 まぁ、「そんなことわかっている」と、多くの人が言うと思うのだが、実践できている人は少ない。

 

 やりたくないこと、得意ではないことを、世間体がいいから、お金になるから、という理由でやれば、そこには、時間的の問題と精神的な問題が掛け算されて、襲ってくる。

 

 得意ではないので、普通の人より、2倍の時間が掛かるとする。

 

 やりたくないことなので、普通の人より、2倍苦痛を感じるとする。

 

 すると時間が2倍×苦痛が2倍で、人生に4倍の苦痛がもたらされるのだ。そりゃ人生が苦しくなるわけだ。  

 

 実例を挙げて考えてみよう。

 

 まず、学生時代の受験勉強。

 

 これは大抵の人にとってツライ。そして勉強が苦手な人ほど、もっとツライものになる。

 

 そして勉強が苦手なので受験勉強がうまくいかず、結局、浪人し、現実の問題としてさらに1年、2年とツライ受験勉強をする期間が延びる。

 

 勉強が苦手で精神的にも他の人より苦しんでいるのに、その期間が延びるのだ。これはもう自ら苦行を選んでいるに等しい。

 

 心底やりたい仕事があって、その仕事をやるためにどうしても大学に行かなくてはいけないというのならともかく、大学を出た方が将来、収入がいいからという程度の理由であえて苦しみの道を選ぶのは、強欲に支配され、自ら地獄の業火が燃え盛る山に登り続ける亡者に等しい。(ちょっと言い過ぎです)

 

 大人になってからも、油断できない。

 

 婚活ブームと言われて久しいが、見知らぬ異性と会話することが苦痛だったり、そもそも異性と居ても心休まらない人にとって、婚活は受験勉強以上の苦痛だろう。

 

 そして、異性が苦手なのだから、婚活はうまくいかず、その期間も長引く。

 

 他の人より、苦しいと感じる婚活が、他の人より長く続くのだ。

 

 ましてや婚活の理由が、結婚していないと世間体が良くないなんて、あやふやな理由なら、苦痛は増すばかりだ。

 

 一方で、世間には苦痛に耐え、苦手なことを克服することを賞賛する風潮がある。それは時に美談として語られる。

 

 でもそれは社会が用意した罠だ。美談として語られるのは、それが珍しいからであり、たいていは元々得意だったり、好きだった人にはかなわない。

 

 苦手なことを克服することを賞賛するのは、日本が高度成長するには、欠点の無い人、均質的な人がたくさんいた方が良かったからだ。

 

 それが総中流、サラリーマン社会を産んだ。

 

 しかし高度成長期は遥か遠い昔だ。ぼくが生まれる前の話だ。

 

 未だに社会はその成功体験に縛られている。

 

 一人ひとりの人生に焦点を合わせてみれば、何より長期間、人生に苦痛をもたらすものは、得意でもない、やりたくもない仕事を続けることだ。

 

 人生において、仕事をする期間はとても長い。その選択を誤れば人生はあっという間に地獄に変わる。

 

「だって仕方ないじゃないか、生きていかなくちゃいけないのだから」

 

 多くの人がそう言うだろう。僕らの先輩、親世代はそうやって生きてきた。そうしなければ実際、生きていけなかった。

 

 しかし、もう時代は違う。本当はもう誰もが好きなことをやって生きていくことができる時代になっている。もう僕らは十分に豊かになったのだから。

 

 現代においても、確かに世間並に働かなければ、世間並には暮らしていけない。隣の人と同じように、大きな車を買い、新築の家を買い、流行の服を買い、やたらと新発売される新しいシャンプーを買うには世間並に働かなくてはいけないだろう。

 

 しかし、本当の意味で生きていくには、それほどお金は掛からない。

 

 実際、僕は月額6万5千円で暮らしている。つまり月に6万5千円稼げれば、どんな仕事を選んでもいいのだ。

 

 ギター弾きでも、昆虫学者でも、鉄道ライターでも、絵描きでも、作曲家でも、本当にやりたいことをやればいい。

 

 それでも、自分の選んだやりたいことが、まったくお金にならないということもあるだろう。

 

 そんな場合でも、週にたった2日、8時間、時給1000円で働けば、月に6万5千円は稼げる。

 

 週に2日は生きるために働いても、残りの5日はやりたいことができるのだ。

 

 近い将来、AI(人工知能)が発達して、仕事がなくなると恐れている人がいるが、もっと仕事が無くなって、もっと人間が自由になると考えれば、未来はバラ色に見えてくる。

 

 将来に必要なのは、お金を稼げるスキルではなく、AI(人口知能)の発達によって、仕事を取り上げられた時に、お金以外の動機で、やりたいことがあるということだ。

 

 今でも、定年で仕事を引退した後、腑抜けたようになってしまう人がいる。

 

 また、仕事を引退したら、お金を使うぐらいしかやることがなくて、引退してからもお金の事ばかり考えているご老人は多い。

 

 実際、投資詐欺事件で被害者として、ニュースで出てくるのは老人ばかりだ。

 

 僕らの世代は、お金からもっと自由になろう。もっとやりたいことをやろう。人生は短い。

 

 死ぬときに、お金をいっぱい稼いで、いっぱい使った。なんて人生ではなく、いつもやりたいことに夢中になっていたそんな人生だったと振り返りたい。

 

 そして僕らは気づいている。真に貴重で大切なのは、本当にやりたいと心底思えるものを見つけること。

 

 

 実はそれが一番難しいのかも知れない。もし、あなたがそれを見つけているならすぐにそれに没頭すべきだし、まだ見つけていないなら、

 

 さあ、それを見つけに行こう。

空を飛ぶのが苦しいのなら、しっかり地に足をつけて地を歩めばいい。

 一番つらい人生とは何だろう。それは恐らく「空高く舞い上がる人生」でもなく、「地面をゆっくり歩くような人生」でもない。それは「中途半端な高さの空中を必死に飛び続ける人生」ではないだろうか。

 

 まず、経済的に豊かで、有名で、多くの人に愛され、注目を集めるような人生を「空を飛ぶような人生」と定義する。

 

 誰もが見上げて羨ましがるような人生だ。

 

 テレビでも、ネットでも、成功し、空高く舞い上がるかのような人生を生きる人たちが、たくさん活躍している。

 

 テレビに出ている芸能人は年収何千万、何億という人たちがたくさんいるし、多く見られている人気ユーチューバーたちも、人気ブロガーも華やかで、輝いて見える。

 

 彼らの人生を「空を飛ぶような人生」とすると、月6万5千円で生きる僕の生き方は「地面をゆっくり歩くような人生」だ。

 

「空を飛ぶような人生」が素敵に見えるのは今さら語るまでもない。彼らの生き様はテレビでもネットでもみんなの憧れだ。

 

「空を飛ぶような人生」の素晴らしさは語り尽くされ、テレビにもネットにもあふれている。

 

 だから僕は、逆に「空を飛ぶような人生」の危うさについて考えてみようと思う。

 

 まず空を飛ぶということ自体が危険極まりない。翼を失えば地に落ちるからだ。高い空を飛ぶほどそこから落ちれば、その痛みは計り知れない、命を落とす人もいる。

 

 実際、有名人がスキャンダルで一転、日本中の人から後ろ指を指されることになったり、莫大な収入がありながら浪費が過ぎて、破産するなどという話はいくらでもある。

 

 そして誰もが羨む活躍をしている俳優さんやアイドルが、突然、自らの命を絶つなんて、悲しいこともある。

 

 誰もが憧れる空には危険に満ちているのだ。

 

 そして、空を飛ぶには羽ばたき続けなければならない。翼を休めれば落ちてゆくしかないのだ。

 

 一方、「地面をゆっくり歩くような人生」はどうだろう。

 

 空を飛ばなくていいのだから、両手を翼に変えて羽ばたきつづける必要は無い。空いている両手で愛する人にゆっくりと触れたり、道端に咲く花を摘むこともできる。

 

 そして疲れたと言って足を止めても落ちることはない。地面に立っているのだから。休みたい時に休み、歩きたいときにあるけばいい。

 

 失敗して転んでも、ただ立ち上がればいい。元のように歩き始めるのは簡単だ。「空を飛ぶ人」たちのように地面に激突して大怪我をすることもない。

 

 生々しい例をあげれば月に6万5000円で暮らしている人間が失業しても、また、月に6万5000円稼げる仕事を見つけるのはそんなに難しくはないだろう。

 

 これが芸能人がスキャンダルで仕事を失ったり、プロ野球選手が怪我をしたなんてことになれば、元のような収入の仕事に就くのは容易ではない。

 

 さらに、もう一つ考えてみよう、

 

 一番つらい人生とは何だろう。

 

 それは恐らく「空高く舞い上がる人生」でもなく、「地面をゆっくり歩くような人生」でもない。

 

 それは「中途半端な高さの空中を必死に飛び続ける人生」ではないだろうか。

 

 そして、日本人のほとんどはこの「中途半端な高さを必死て飛び続ける人」たちだ。

 

 遥か上空を飛ぶ成功者たちに憧れながらも、空高く舞い上がることもできず、 人並みの人生という幻想に縛られ、地面に降りて歩く勇気もない。

 

 人並みという曖昧な定義の生活を守るための、そこそこの収入を守るために、やりたくない仕事に、人生を、時には良心すら切り売りし、「空高く舞い上がる人生」に憧れて、芸能人や有名人の勧める商品を買い求める。

 

 それが本当に自分が心から欲しているものかどうかも考えずに。

 

 それは「空高く舞い上がる人生」を生きる人たちの養分になっているに過ぎないのに。

 

「空高く舞い上がる人生」を誰もが生きることはできない。それは幸運だったり、才能があったり、何かを持っている人たちの人生だ。

 

 野球をするひとの誰もがイチローにはなれないし、女の子の誰もが新垣結衣にはなれないし、起業しても誰もが孫正義のようにはなれるわけではない。

 

 もちろん自分が「空高く舞い上がる人生」を生きる人間かどうか、試してみることをぼくは否定しない。

 

 僕だって、偉大な何かに憧れた時はあった。でも人生は自分が「空高く舞い上がる人生」を生きる人間ではないと気づいてしまってからも続くし、そのあとの人生の方がずっと長い。

 

 だから一つの選択肢として「地面をゆっくり歩くような人生」があることを、多くの人に知ってもらいたい。

 

 休むことなく羽ばたき続ける人生に疲れた人に。

 

 空には小鳥が舞うが、地面には花が咲くよ、と。

 

「地面をゆっくり歩くような人生」も悪くはないよ、と。

 

 だから僕は今月も6万5000円で幸せに暮らして見せたいのだ。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お金だけが負債ではないことを、僕らはいつも忘れている

お金はとても、わかりやすく、強い力を持っています。僕らは意識して、自分自身の体の健康、自分自身の心、家族、社会について目を向けなければ、お金という魔物に人生の大半を根こそぎ持っていかれてしまいます。

 

 あなたには負債はあるだろうか。

 

 奨学金、住宅ローン、人によっては、親族、友人からの借金、サラ金に手を出して高金利に苦しんでいる人もいるかも知れない。

 

 しかし、それらは人が背負う負債の一部に過ぎない。

 

 もしあなたが世界的な大富豪で莫大な資産を持っていても、節制して暮らしていて借金が一円たりとも無いと胸を張っていても、負債がないということにはならない。

 

 それはただ貨幣経済の分野においては負債がないということに過ぎない。

 

 人が抱える負債はお金だけではない。

 

 まず自分自身の体に対する負債。健康に悪いと知りつつ、何年も運動らしい運動をしていないとか、忙しいことを理由にジャンクフードばかり口にしているとか。

 

 この自分自身の体に対する負債の取り立ては、経済における借金取りとは、比べものにならないほど、恐ろしい。

 

 借金取りは家屋敷を取り上げるが、この負債における借金取りは言わば死神で、命まで奪っていく。

 

 他にも負債はある。自分自身の心に対する負債。本当にやりたいことを脇に追いやって日々の経済生活に追われる人は多い。

 

 また頭を下げたくない人に頭を下げ、本心ではない笑顔を切り売りする。

 

 その苦痛を紛らわせるために酒と暴食に逃げて、それがさらに自分自身の体に対する負債を積み増してゆく。

 

 人生に置ける負債のリストはまだまだ続く。

 

 次は家族に対する負債だ。

 

 一緒に幸せになろと約束したパートナーとは幸福な時間を過ごせているだろうか?

 

 生まれて来てくれたことに感謝した愛おしい子供だちにはたっぷりと愛情を注げているだろうか?

 

 産み育ててくれた両親、慈しんでくれた祖父母に愛情と感謝を示せているだろうか?

 

 ビジネスや、金銭的には成功しながらも、家族との関係が悲惨、そんな物語はドラマでも定番の話だ。

 

 そして最後に社会に対する負債だ。

 

 それは、自分が生きる社会の隣で生き、共に社会を支えてくれている同時代人に対する"借り"でもある。

 

 それは真に隣人に対するものでもあり、遠く異国で生きるまだ見ぬ誰かに対するものでもある。

 

 更には自分にたどり着くまで命を繋げて来てくれた先祖に対する"借り"でもあり、返済はまだ見ぬ未来の子供たちに対して、ペイフォワードしてゆくものになる。

 

 例えば環境に負荷を掛けない生き方、物を大切にする、必要なないものを買わないというのも、社会に対する負債を増やさない、一つの貢献になる。

 

 どうだろう。こう考えていくと人は生きているだけでも負債が積み重なっていくものだと、ウンザリしてくるかも知れない。

 

 しかし、生きるというのは恐らく、そういうものなのだ。

 

  僕らは日頃、これらの負債には目を背けて暮らしている。

 

 そして一方で、経済的な問題とはいつも格闘している。最低でも週5で、やりたくない仕事をこなし、息子の将来の学費の心配をしながら残業し、目の前で遊んでくれとせがむ息子の手を振り払って、休日出勤に励む。

 

 なぜ、僕らはこんなにも経済的な負債ばかりに目を奪われてしまうのだろうか?

 

 一つは他の負債と比べて分かりやすいというのも、あるだろう。

 

 なにせ借金は明確だ。あなたの借金がいくらで、利息はいくらと請求書をみればすぐにわかる。老後に不足する金額は2000万円だと政府は言う。子どもを私大に入れるには最低300万円だと経済紙が言う、なんと明確なのだろう。

 

 一方で体に対する負債は健康診断の時だけだし、家族の不満は数値化できない。

 

 何より、大きいのがあなたが経済的な負債を必死に返済することで、利益を得る他人がたくさん、いるということだ。

 

 だから請求書はご丁寧に毎月、回ってくるし、テレビでも、ネットでも、家買え、車買え、旅に出ろ、外食しろと言ってくる。

 

 あなたがお金を使い、その負債を返すために働けば、利益を上げられる企業は喜び、税金を取れる政府も喜ぶ。

 

 そして経済的な負債を増やし、さらにその返済に励めと迫ってくるのだ。

 

 その結果、他の負債は見過ごされる。自分の体、心、家族、そして本当の意味での社会、環境。

 

 だから僕らはあえて、意志を持って、お金以外の負債に目を向けなければいけないのだと思う。

 

 人生における最も貴重な資源は時間だ。

 

 経済は油断をすると人生の大半を奪っていく、経済的発展が人の幸福に直結していた高度成長期は、もはや遥か遠い昔だ。

 

 僕らは自分の貴重な人生の使い方を、女性はもちろん老人も働く時代だと言う政府、大して変わり映えしないものを革新的な新製品だと言って半年ごとに売りつける企業、未だに経済発展だけが我々を幸福にすると嘯(うそぶ)く政治家たちから守らなくてはならない。

 

 それはもはや一人ひとりの戦いだと言っていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの愛車の年間時速は何キロですか?

 

 あなたの愛車は時速何キロですか?

 

 そう聞かれれば大抵の人はまぁ、俺の愛車はポルシェだから最高速度で250kmぐらいは出るとか、ポンコツの軽トラでいつも30kmぐらいで走っているとか、ママチャリでいつも15kmぐらいで走っていると、様々な答えが返ってくるでしょう。

 

 ところが、ある学者の先生が考え出した計算方法だと、自転車が最速を叩き出すこともあるのです。

 

 それはその愛車の為に掛かるコストを時給換算するというユニークなものです。

 

 まず計算を簡単にするために持ち主の時給を1000円に統一します。

 

 最初に最高速度250km出せるポルシェで考えてみましょう。日本で最高速の250kmを出すことは法律上できないので、年間の平均速度を60kmとして、週末に2時間ずつドライブするとして52週で乗っている時間は104時間、年間の走行距離が6240kmとなります。

 

 こんどはコスト計算です。年間の減価償却や保険、ガソリン、整備に200万円ほど掛かるとして、オーナーが働いた時の時給1000円とすると、オーナーは2000時間働く必要があります。

 

 つまり年間の走行距離6240kmの移動に労働2000時間+104時間で2104時間掛かっているということになります。

 

 時速に直すと2.965779kmで、徒歩の平均時速の4kmを下回ります。

 

 次に平均時速30kmのポロい軽トラで考えてみましょう。年間の減価償却と維持費、ガソリン代を多めに見積もって15万円。

 

 5km先の畑への往復で毎日10km走るとして年間走行距離は3650km。平均時速30km

として年間約122時間乗っていることになります。

 

 コスト計算してみましょう。15万円を稼ぐのに時給1000円で150時間。+実際に軽トラに乗っている時間122時間を足すと277時間。

 

 時速で計算すると13.17km。なんとポルシェ4倍以上の時速を叩き出しました。

 

 最後はママチャリです。ママチャリで毎日、通勤に買い物にと一日1時間乗ると考えると、毎日15km。年間5475km。ママチャリの年間の経費を1万円とすると、ママチャリのためにオーナーが働かなくてはいけない時間は年間10時間。それに実際にママチャリに乗っている時間、365時間を足すと、375時間。

 

 時速にしてみると、14.6kmということになります。なんとママチャリが最速です。

 

 ここでさらに学者先生の考えに、ぼくの考えを上乗せしてみます。

 

 オーナーは健康の為にフィットネスクラブに毎日1時間、フィットネスサイクルを漕いで健康を維持しているとします。

 

 ところがママチャリに毎日1時間乗っている場合はその一時間は不要になります。

 

 同じ自転車での運動ですからね。

 

 つまりママチャリオーナーは自動車ユーザーがフィットネスクラブに行って費やしていた時間が一日1時間、年間365時間の自由な時間が与えられます。

 

 ママチャリオーナーには、さらにスポーツクラブの会費を一ヵ月1万円とすると年間12万円も不要になります。そこでさらに時給1000円で12万円稼ぐだけの時間、120

時間の自由な時間が与えられます。

 

 フィットネスクラブ代を稼ぐための時間と、フィットネスクラブに通っている時間のトータル485時間が自由な時間として得られるわけです。

 

 もはやこうなってくると、圧倒的にママチャリが速いし、得。ということになります。

 

 あなたもあなたの愛車と、ママチャリの年間時速を比べてみませんか?

 

 

 

 

 

 

 

伊勢谷友介容疑者大麻取締法違反疑いで逮捕で視聴者が罰せられる不合理

news.yahoo.co.jp

 

「芸能人が逮捕されると、真っ先に罰せられる人だーれだ?」

 

 今日、俳優の伊勢谷友介さんが逮捕されたというニュースが流れた。

 

 もし、容疑が事実ならば伊勢谷さんは日本の法律に従って罰せられるべきなのは、間違いないが、それよりも先にひどい目にあっている人たちがいる。

 

 それは彼が出演していた連続ドラマ「未満警察 ミッドナイトランナー」を観ていた視聴者たちだ。

 

 最終回は関東では最終回を放送済みだが、最終回の放送が中止になった地方もあるらしい。

 

 これは映画を観に行って、最後の20分ところで突然、「出演俳優が逮捕されたので上映を中止します」とアナウンスが流れて、映画の上映が中止されるようなものだ。

 

 テレビの視聴はお金払ってないから映画とは違うという人もいるだろが、CMが流れていると言う点で、お金払っているのと変わりはないとぼくは考える。

 

 芸能人が逮捕されたら、作品の放送を中止するというルールは一体どこを向いたルールなのだろうか。

 

 悪いことをした芸能人が罰せられるのは当然だが、よくわからない倫理観で、視聴者まで罰するシステムはもういい加減、やめるべきだど思う。

 

 皆さんはどう思いますか?

本当は見たくなかった映画「誰も知らない」

 母一人と父親が違う四人の子供。

 

 お母さんは恋多き女。新しい彼氏を作ってわずかな生活費を置いて、家を出てしまう。さぁ、子供だけでの生活が始まる。という話。

 

 本当は見たくない。観ないほうが幸せ。そんな映画。だけど映画の中だけではなく、現実社会にネグレクトされている子供たちは居るのだから、目を逸らすわけにもいかない。

 

 だから、観た。仕方なく。

 

 この映画を観た人の多くが母親への怒りを覚えるだろう。

 

 でも、お母さんは子供たちに愛情がないわけではない。ただ「女」の部分が勝ってしまって、男の元へ走ってしまった。

 

 世のお母さんたちの中にも、「女」の部分が無いという訳ではないのだから、多くの母親の中にも、このお母さんの要素は潜んでいるのだろう。

 

 ただその要素が多いか少ないかだけ、ただ言い寄ってくる男がたまたま居ないだけ、ということすらあるかも知れない。

 

 このコラムを読んでいるお母さんの中にも、そこらへんの男に引っ掛かることはなくても、相手が、山崎賢人さんなら、松坂桃李さんなら、と考えれば揺らぐお母さんだっているかも知れない。

 

 実際には男に走らなくても、走ることを妄想することならあるかも知れない。

 

 人間は白か黒かではなく、大抵、灰色だ。

 

 この映画の感想の中には「育てられないなら産むな」というコメントが多かった。

 

 でも、ぼくはそれに関しては賛成できない。

 

 「育てられないなら産むな」というのは、「君は親に育ててもらえないのだから生まれて来るべきではなかった」と子供に言う事と同じこと。

 

 ぼくはそんな残酷なことは言えない。「幸せになって欲しい、世界を楽しんで欲しい」と願うだけだ。

 

  母親は、子供を産んだだけで100点だと思っている。産んでもらったらこそ、笑ったり、怒ったり、お腹空かせたり、苦しんだり、楽しんだりできる。

 

 女の人が、子供を育てるというのはその産んだという100点満点から、さらに上乗せして120点、150点、200点にすることで、産むということ自体がもはや100点満点だとぼくは思う。

 

 その点でお父さんは産んでいない。つまり子供が生まれた時点でお父さんは0点。つまり男は0点から始まるのだ。

 

 この映画の中で、4人の子供のお父さんはみんな違う。つまりこの子供たちにはお母さんは一人だが、お父さんは4人いるということ。

 

 責められるべきはここまで子供たちを育ててきた母親ではなく、この4人の父親ではないかと。 

 

 そんな風に、母子家庭で育ったぼくは思うのです。

 

「誰も知らない」9/ 母一人と父親が違う四人の子供。

 

 

 

 お母さんは恋多き女。新しい彼氏を作ってわずかな生活費を置いて、家を出てしまう。さぁ、子供だけでの生活が始まる。という話。

 

 

 

 本当は見たくない。観ないほうが幸せ。そんな映画。だけど映画の中だけではなく、現実社会にネグレクトされている子供たちは居るのだから、目を逸らすわけにもいかない。

 

 

 

 だから、観た。仕方なく。

 

 

 

 この映画を観た人の多くが母親への怒りを覚えるだろう。

 

 

 

 でも、お母さんは子供たちに愛情がないわけではない。ただ「女」の部分が勝ってしまって、男の元へ走ってしまった。

 

 

 

 世のお母さんたちの中にも、「女」の部分が無いという訳ではないのだから、多くの母親の中にも、このお母さんの要素は潜んでいるのだろう。

 

 

 

 ただその要素が多いか少ないかだけ、ただ言い寄ってくる男がたまたま居ないだけ、ということすらあるかも知れない。

 

 

 

 このコラムを読んでいるお母さんの中にも、そこらへんの男に引っ掛かることはなくても、相手が、山崎賢人さんなら、松坂桃李さんなら、と考えれば揺らぐお母さんだっているかも知れない。

 

 

 

 実際には男に走らなくても、走ることを妄想することならあるかも知れない。

 

 

 

 人間は白か黒かではなく、大抵、灰色だ。

 

 

 

 この映画の感想の中には「育てられないなら産むな」というコメントが多かった。

 

 

 

 でも、ぼくはそれに関しては賛成できない。

 

 

 

 「育てられないなら産むな」というのは、「君は親に育ててもらえないのだから生まれて来るべきではなかった」と子供に言う事と同じこと。

 

 

 

 ぼくはそんな残酷なことは言えない。「幸せになって欲しい、世界を楽しんで欲しい」と願うだけだ。

 

 

 

  母親は、子供を産んだだけで100点だと思っている。産んでもらったらこそ、笑ったり、怒ったり、お腹空かせたり、苦しんだり、楽しんだりできる。

 

 

 

 女の人が、子供を育てるというのはその産んだという100点満点から、さらに上乗せして120点、150点、200点にすることで、産むということ自体がもはや100点満点だとぼくは思う。

 

 

 

 その点でお父さんは産んでいない。つまり子供が生まれた時点でお父さんは0点。つまり男は0点から始まるのだ。

 

 

 

 この映画の中で、4人の子供のお父さんはみんな違う。つまりこの子供たちにはお母さんは一人だが、お父さんは4人いるということ。

 

 

 

 責められるべきはここまで子供たちを育ててきた母親ではなく、この4人の父親ではないかと。 

 

 

 

 そんな風に、母子家庭で育ったぼくは思うのです。

 

 

 

「誰も知らない」9/12まで無料配信中。

 

人がたくさん死んだけど楽しかった「タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら(R15+)」

 

「人がたくさん死んだけど楽しかった」

 

 人前でそんなことを言ったら、人格を疑われて、それ以降、会社の飲み会にも誘われなくなり、本人のいないところでミドルネームのようにサイコパス○○と呼ばれるようになるかも知れません。

 

 あなたが鈴木さんなら、ちょっと縮めて、サイコパスズキとか呼ばれるかもしれません。

 

 腰痛持ちで、いつもシップ臭い鈴木さんなら、影ではサロンパスズキとか呼ばれているでしょうから、サイコパスズキに変わっても大差ないですね。

 

 そもそも、会社の飲み会なんて、実は誰も参加したくないですから…。あれ、「人がたくさん死んだけど楽しかった」と会社で突然立ち上がって叫んでも、大した実害はなさそうですね。(もちろん、筆者は一切の責任を持ちません)

 

 という訳でなにが「人がたくさん死んだけど楽しかった」のか、(やっと本題に戻ってきた)というと、映画です。それも「タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら(R15+)」というB級、C級感満載のタイトルの作品です。

 

 この映画が素晴らしい。二人の中年の田舎男が中古の別荘を買って、湖のほとりにやってくる。

 

 その湖のほとりに同じようにキャンプにやってきた男女混合大学生のリア充ども

(別に筆者はリア充に恨みはありません)。

 

 この死ねばいいのに、リア充どもは楽しそうに夜の湖で下着で泳いだりします。残念ながらお色気シーンはこのぐらいです。

(別に筆者はリア充に恨みはありません)。

 

 ここから、高慢無能リア充どもと、二人の中年の田舎男との間に生まれた誤解から、ドタバタが始まります。

 

 通常、ドタバタ喜劇では人は死にませんが、この作品では、ドタで1人死に、バタでもまた一人死にます。

 

 そしてドタバタ、ドタバタと続くのです。そして観る者は、あまりのドタバタに腹を抱えて笑ってしまうのです。

 

 この映画は観る者に何も残しません。そこには楽しい1時間半があるだけです。

 

 ただ、見終わってから、ちょっと思いました。いがみ合ってるアメリカと中国も、このドタバタと大して変わらないのかも知れない。

 

 両方の事情を知っている観客の視点からすれば笑えるこの映画のように、両方の事情を知る神の視点からすれば、アメリカと中国のいがみ合いも、コメディに見えるのかも知れません。

 

 おっと、くだらないことを考えてしまいました。

 

 とにかく僕が、冒頭から一貫して言い続けてきた通り、言いたいことはただ一つ。ヒロインはまぁまぁ可愛かったので、もっとお色気シーンが多かったら☆5だったということです。

 

 ぼくは声を大にして言いたい。何のためのR-15かと。

 

 と、今なら無料で観られます。9/17まで

gyao.yahoo.co.jp